古今叙事大和本紀 序章 静かな海からの旅立ち 7 完結
このような出来事がありそれからというもの、天鈿女命ことアメちゃんさんが唯一我が心を打ち解けられるというこれまでになかった存在になり、岳は事ある毎に、まるで迷える子羊のような表情を浮かべながらこの場所へと訪れ、思いの丈をぶつけていた。
天鈿女もまるで我が身に起っている事のように嫌な顔を一切させず、話を聞き、適格な教えを施しては、岳に降りかかる数々の困難を回避させていて、実に神懸かっていると毎回感じては驚愕していた。まあ、当たり前の話ではあるが…(笑)
そんな中、弥生という女性と近々出逢うだろうというご神託を賜ったのが確かいつの日だっただろうか…。弥生と出逢う事ができて、婚礼の儀も無事済ます事ができたのだった。それに天鈿女も大層な喜びを見せたのだったが、ある日を境にその岩へぱったりと降臨しなくなってしまったのだ。
初めは『はて、面妖な』と、首を傾げるだけだったのだが、日々過ごしていく内に、岳の中にまるで泡沫の如き感情が、一つ、また一つ浮かんでは消えていく。
そんなある日、重大な事実に岳は気がついてしまった。
それは、弥生と出逢うまでの間を、天鈿女がその心の隙間を埋めてくれていたのではないかという事に…。それは何故にと考えても分からないが、もしかすると会話の流れ上、我が祖に何かの恩義があるのだろうか。
幾ら考えても答えは出てくるはずもない。しかしながら、そう考える度、そう思う度、岳の心は段々と淋しさに押し潰されそうになり、天鈿女命にとても逢いたくなった。
そしてその日の宵、堪らなくなった岳は思わず砂浜まで懸命に走っていき、もぬけの殻と化しているその岩の元で人知れず蹲り、二刻ほどしくしくと泣き腫らした。
それからというもの、弥生との幸せに過ごす日々の中に天鈿女命との記憶は埋もれていき、そして忘却した。
弥生がいなくなった今、想いをぶつけられる者は誰もいなくなった訳で、そんな中、あの時の事をふと思い出した自分は恥じるべきなのだろうが、事ここに及び、縋りつける相手など天鈿女以外あり得ない。
そう感覚すると岳の足は自然と浜辺にあるあの場所へ向かっていた。
岩の麓へと辿り着き、涙に濡れた頬を拭い去り、そして徐に叫び散らした。
「アメちゃんさんっっっ!!!今再びこの地に降臨したまえっっ!!!」
その言葉は果てしなく広がる空へと吸い込まれていった。すると、岩肌から、まるで淫靡とも思えるほど紫立ちたる薫りが立ちこみ始め、辺りを優しく包んでいく。
次第に視界は失われるほど濃厚になり、その中を佇む岳は、また再び逢えた喜びに感謝の念すら抱いていた。
「アメちゃんさん、おるというのかっっっ!!?」
「おらんの…。」
返ってきた声は懐かしきあの女神そのものであったのだが、どうも様子がおかしく、岳は思わず首を捻った。
「汝、おるではないかっっっ!!!」
「おらんの…。」
やはり様子がおかしい…。
天鈿女の仕出かすお転婆な言動は分かっているつもりではあったが、今日に至ってはそれに付き合う暇もなく、焦りの中に苛立ちを覚え始めた。
「おるのであろうがっっ!!」
「おらんの…。」
「何を言うておるのじゃっっっ!!」
「おらんの…。」
「だから何を…」
「おらんの…。」
岳の発する声に、被さった天鈿女の声。この場を遊んでは岳をからかっているというよりも、どこか不機嫌な雰囲気を感じるのだ。何故そう思うかというと、いつも発していた声よりも低く、深い不穏に聞こえてならないのである。
それに負けてはならぬと岳は懸命に呼びかけた。
「どうしてこのような…。」
「おらんの…。」
「汝、少し子供染みては…。」
「おらんの…。」
「何が…。」
「おらんの…。」
これでは埒が明かぬと思った岳は、少し相手の反応を見ようとしばらく口を噤む事にしたが、天鈿女からの反応は何もなかった。一時静寂がその場を包み、流れる風の音と、寄せては返す波の音が岳の耳に絶えず聞こえてくる。
岳は懸命に思考を凝らし、天鈿女の意表を突くやり方を見出した。
「おるっ。」「おらんの…。」「おるっ。」「おらんのっ。」「おるっ!」「おらんのっっ!」「おるっっ!!。」「おらんのっっ!!!」「おるっ。」「おらんのおっっっ!!!!」
そしてここからが一世一代である岳の真骨頂。岳の描いた壮大な軍略が天鈿女にとどめを刺す。
岳は心の中で叫んだ。「括目せよ」と…。
「おらんのっっっ!!!!」
「おるぅぅぅぅうっっっ!!!!」
掛かりおったわと岳はほくそ笑んだ。
「やはりおるではないかっ!」
その勝ち誇った声に特に悔しがる訳でもなく、妙に落ち着き払った雰囲気を纏わせて、遂に天鈿女はその姿を現した。
「バレたわね…。貴方にはしてやられたわ。」
その凛とした佇まいが、逆に岳には訝しく思えて仕方がなかった。しかし、そんな事を言葉にするほど岳は野暮ではない。
「アメちゃんさん…、あの刻はすまなかった。そして、ありがとう…。」
天鈿女は相変わらず長い睫毛を自慢げに瞬かせながら、無邪気とも妖艶とも取れるような眼差しで岳を見つめていた。
「いいのよ、そんな事…。」
そう発しながら海の方を眺める天鈿女の横顔を見ると、なんだか切ない想いに苛まれた。視線の向こう側の海には相変わらず月の光が自ら弄ぶかのように漂っていた。
「この地を再び踏むという事は、貴方に何かがあったという事なのね?さあ、言ってみなさい、あの刻のように…。」
慈しみ深いその言葉に、目頭を熱くさせながら岳は心をあの日に返した。
「いやあ実は、……………。」
弥生の為に拾い集めた薬草の事、松林を駆け抜けている間に言伝を賜った春日や珠子の描写。家へとたどり着いた刻の殺伐さや、そこに居た者どもの佇まいや出で立ち。珠子から教わっていた剣術が全くもって刃がたたなかった事や、大和と言われるこの国が今、存亡の危機に立たされているという想像を絶した言葉。そして、弥生の悲しげなあの表情…。
ありとあらゆる出来事を、岳は包み隠さず語り尽くした。すると天鈿女は、腕を組み、何かを思い出すかのように表情を曇らせた。
「貴方から聞く話によると、多分それは大和国の中枢の者ね…。つか、今なら崇神の話じゃないっ!何やってんのあの子っっ!!!」
憤る天鈿女の声が空間へと広がり、やがて我が心にこだました。
多分天鈿女がいう崇神というのはあいつらが言っていた大王の事を指しているのだろう。名指しできるほどこの女神と大王とやらは近しい間柄なのだろうかという疑問が岳の心に浮き出してくる。
しかし、それを問いていいのか悪いのか…。これまでの経験からしてみると何を聞いても理解する事はできないのだろうと、岳はその想いをそっと胸にしまった。
それよりもこれだけは聞いておかなくてはならない事があった。
「中枢?確かあの者達はこの大和が有事の刻であると弥生を浚っていったのだが、果たして弥生に何ができると申すのか…。」
「実はその事について、思い当たる節あるんだけどね…。」
岳の言葉に透かさず発した天鈿女の声は、まるで秋風の如き切なく、しかしながら、やはり美しく、こんな時にこんな事申し上げるのもどうかと思うが…麗しかった。
天鈿女の遠い目は何を映し出されているのか…。
弥生とはまた違う雰囲気が醸し出されているこの女神の事が今、岳は何故か気になって仕方がなかった。
天鈿女は何かに気づいたかのような顔をして、徐に岳の方へと視線を向けた。
「そうだっ!大和まで弥生ちゃん迎えに行けばいいじゃないっ!!!」
その言葉に、岳は身体を一瞬硬直させた。
「えっ!?」
「うんうん、その方がいいわ。きっと弥生ちゃん喜ぶと思うし、何かね、何だか…ねっ。うふふふっ。」
また訳の分からぬ事を言い始めたと岳は思った。
その方がと言われても他にどういう方があるのかさっぱり想像もできない訳で、第一、大和という場所がどこにあるのかさえ分からない。
それよりも最後の言いかけた含みがやけに気になった。
聞いてはならぬ気がしなくもないが、聞かなければ事が進まないような…、やはり不毛なやり取りになってくるのか…。
否、ここは敢えて聞いてみようと岳は思った。いざ、尋常に…。
「何かとは…何か?」
身体を左右に揺らし、相変わらず両頬に手を当てながら何故か嬉しそうな天鈿女に対し、直立不動のまま、冷静沈着且つ、厳かな雰囲気を放たせながら言葉を投げかけた。
すると、一瞬だけキョトンとした表情へと返ると、すぐに満面の笑みを浮かべながら歌うように言った。
「何かって…?その方がロマンティックでいいじゃないってばっ!!うふふふっ」
やはり聞くのが間違いであった…。
結局は訳の分からない言語で切り返される事など分かり過ぎていたものの、やはり聞き返してしまった自分の誠実さが憎い。全身全霊から力が抜けていき、岳はその場へと座り込み、まるで念仏唱えるように呟くしかできなかった。
「名前の後の『ちゃん』って何だ…。大和ってどこにあるというのだ…。ロマンなんたらってどういう意味なのだ…。分からない、全て分からない…。」
その姿が天鈿女にどう映ったのか、岳の傍へゆっくりと近づいてきて、蹲る岳の背中をそっと抱きしめた。いきなりの事で岳ははっと目を見開かせ、慌てふためく事しかできなかったのだが、まるで天から羽衣がふわりと舞い降りてきたようで、心地よさが全身へと染み渡っていった。
思わず目を閉じてその感覚に浸っていると、その母に包まれている優しい感触というか、見守られている安心感というか…。岳は又もや涙してしまった。
背中から緩い春風のような息遣いと、心地よい声がする。
「岳、何も心配いらないわ。弥生ちゃんの事も、貴方の未来の事も…。私が護ってあげるから。だから…。」
「でも、しかし…。」
この女神がこれから何をしでかそうとしているのか理解できない今、そんな事を言われても何の気休めにもならない。
天鈿女を振り払うように前方へと足をよろめかせ、濡れた頬を拭い去る事もせず、言葉を返しながら後方へと身体を向けた。
すると信じられない光景を目の当たりにしてしまった。
そこには、微笑みは絶やさずままだったが、その大きな瞳から大粒の白い涙がぽろぽろと零れ落とす天鈿女の姿があった。先ほどまで立ち込めていた紫の妖艶な光は一切なく、穢れなき光が辺りを薄く包む。
何者さえも汚す事のできない神聖な領域を垣間見た瞬間だった。
まるで阿吽を図っているかのように、しばらくお互い向き合っていると、先に動いたのは天鈿女の方だった。
涙を振り切るように一度だけ大きく横に顔を向け、岳の方へと視線を向けた時には、まるで夏の暑い日に咲くあの華のような満面の笑みに変わっていた。
やがて強く神々しい光を放ち始め、そして誇らしく力強い声がこの場へとこだました。
「この出来事はこれからの未来、汝が安寧を手に入れる為の試練であるのじゃ!!大和の国までは世が汝を導こうぞっ!!!心配召されるな、岳津彦よっっっ!!!」
いつも発している言葉と、この畏まった(?)、言い方の使い分けがよく分からないのだが、もしかするとこの女神の性分からすると、照れ隠しのようなものなのだろうか。
表情がどこか綻んでいる気もしなくもない。
岳はそのまま天鈿女をぽーっと眺め尽くしていると、呟くような声がぼそぼそっと聞こえてきた。
「岳…、早く何とか言いなさいよ…。私をこのまま固まらせておく気なの…?」
その声の深さに我に返った岳は、驚いて再び天鈿女の表情を見ると、決して、その相変わらずと言えよう笑顔は絶やしてはいなかったが、目は確実に笑っていなかった。
慌てふためいた岳は、必死に応じる言葉を頭の中から探し、そして一番気になる疑問を投げかけた。
「えっと…その…あめちゃんさんよ…。我が身を、我が未来を護ると申されたが、一体どうやって護るというのじゃ…?」
「ん?えっとね…。うふふふ…。」
どこか意味深な雰囲気を醸し出しながらこちらへと向かってきて、手を伸ばせば届く距離に身体を近づかせると、上目使いで意地悪そうな表情を浮かべて、しかし、どこか申し訳なさそうに天鈿女は呟きように言った。
「弥生ちゃん、ごめんね…。こうしなきゃ、この子護る事できないから…。」
「えっ…?」
思考が回らない内に天鈿女の顔が岳の顔へと覆い被さってきて、そして、口と口が重なり合った。岳は目を見開いたまま何も見えない状態になり、五感全てが宙に浮いた感覚に陥っていった。
すると次の瞬間、天鈿女自身の姿が紫の霧に変わり、視界を遮るほど分散されていった。
しばらくは辺りを漂い、その景色を心此処に有らずまま惚け見る岳。そして、紫の霧はやがて一本の竜巻のような渦に変化し、一度天へと吸い込まれるように誘われていった。
その情景を釘づけるかのように、というよりも唖然と目を追わせながら天を仰ぐと、何を考える暇もなく一閃の光が落ちてきて、岳全体を包み込んだ。
すると、心の臓の奥の奥に何かの影が蠢き始めたというか、五臓六腑が何かに支配されたというか…。兎にも角にも今までに感じた事のない、心地よくもあり、気持ち悪くもある不思議な感覚が全身を這うように伝わる。
思わず遠のきそうな意識と必死に格闘しながら、岳は自らを律し続けながら抗っていた。
次第に全身を這う痙攣と感覚が止み始め、視界もハッキリとしてきたところで心底から声が聞こえてきた。
「我が名は天鈿女。民の心の隙間を埋め、今ここで岳津彦の守護神へなりしもの…。」
「はっ…?」
守護神…?我が身を護るという事はそういう事だったのか…。
不意に出逢った女神とこのような間柄になれるとは考えた事もなかった岳は、こんな時どう言えばいいのか分からなかった。
「笑えばいいと思うよ、だなんて私言わないわよ…?というか、それ男の子がいう台詞じゃない…。」
「だから何の話なのじゃっっっ!!?」
聞こえてきた天鈿女の声に透かさず突っ込みを入れた。
我が心にこの女神が宿ったという事は、これ以上今までみたいに調子を合わせていたら身が持たないと直観したからであった。神であろうが、言いたい事は言わせて貰う事にしようと岳は固く決意した。
「岳ぇ…。ばれてるわよ?ま、いいわ。これから貴方と私は一心同体。宜しく頼むわね?うふふふ。」
心外にも楽しそうな声が心の中にこだましている。弥生とは人間性全てが違うこの女神の性格をこれから嫌でも知らなければならないという訳で、とりあえず気になった事を聞いてみた。
「で、あめちゃんさん。天に吸い込まれていったのはどういう訳なのじゃ?」
その問いに少し間を持たし、多分、目の前に居たなら、斜め方向に視線を向けながら腕を組んで言葉を探している天鈿女の姿が安易に想像できた。
再び心に優しい声が広がった。
「あのね?貴方に言っても今は分からないと思うけど、真の実だから所隠さず言うわ?いいわね?」
天鈿女が分からないと言うのなら多分理解できない内容なのだろうが、そう畏まって言われてしまうと緊張感が全身に過る。ゴクリと岳は喉を鳴らしながら言葉を待っていた。
すると、『きゃはは』という笑い声が心全体へと広がり、それが良いのか悪いのかさえ分からず、岳は不穏感に苛まれていった。しかし、それを取り繕うように、言葉が重なってくる。
「いや、岳、違うのっ。高天原にある天孫本社から出張許可貰ってきたのよ。これで旅費はばっちり経費で何とかなるわっ!!岳、行きましょっ!弥生ちゃんを迎えに、いざ、大和までっっっ!!」
気持ちはこの女神の方向に誘われるままなのか。身体まで支配された感覚に陥ったが、これだけははっきりさせておかなければならない。強引に引っ張られる身体を跳ね除けるように岳は叫んだ。
「た、旅に出るのは良いのだが…。準備を致したいのだがっっっ!!」
その声に天鈿女は一瞬瞳を光らせて長い睫毛を瞬かせた。
「そんなもの、道中で用意すればいいじゃない!経費で落ちるから鬼に金棒よっっ!!さあ、早く行くわよっっっ!!」
「えっっ!?鬼ってなんだ!?うおわっ!!つか、まじすかっ!?」
「貴方っ、今、まじすかって言ったわよね?早くも天孫語のお勉強…?まあ、いいわ。早く行くわよ!!!」
「わかりましたってっっっ!!!そんな強引に申さなくてもっ!!」
運命に翻弄され出逢いを果たし、時代の波に飲み込まれていく少年岳津彦と、女神天鈿女のてんやわんやの旅はこうして始まった。
果たして、この御二方にどういう路が待ち受けているのやら…。人知れずこの国の存亡を掛けた、熱く長い、そして尊い旅の火蓋が切って落とされたのだった。
「あ、アメちゃんさんっっ!!ちょっと待って下さいっっ!!」
「岳ぇ…。ちょっと、ビビりすぎっっ!!うふふふ…。」