故ハビビ元大統領についての私論(2)
ハビビは、ずっとスハルトに守られてきました。スハルトはハビビを副大統領に指名するなど、最後までハビビを信じ、守ってきました。そのように扱われてきたハビビは、一般に「スハルトの子飼い」と見なされ、スハルトのもっと忠実な家来とされてきました。
しかし、スハルトの子飼いのはずのハビビは、大統領就任後、スハルト・ファミリーに面会を求めましたが、つい最近まで、一度も受け入れられませんでした。それはなぜなのでしょうか。
●スハルト・ファミリーとハビビの利害対立
1990年代後半のインドネシア政治では、スハルト大統領によるファミリー優先姿勢が様々な軋轢を生んでいました。それは、スハルト・ファミリーとハビビとの間の利害対立を強める結果をもたらしました。
1990年代のハビビ調査技術担当国務大臣(当時)は、イスラム知識人連合(ICMI)総裁の立場を生かし、政権与党ゴルカル内で勢力を高め、すでに1993年の国民協議会でゴルカル推薦の副大統領筆頭候補(最終的に国軍がハビビに反対し、トリ・ストリスノ国軍司令官が副大統領に選出)になるなど、名実ともに権力者の地歩を固めていました。
1993年に副大統領にはなれなかったものの、新たに発足した第6次開発内閣の閣僚には、ICMI出身者を大量に入閣させ、エコノミストや軍出身者を排除し、実質的にはハビビ内閣の様相を呈しました。
そして戦略産業を握るハビビは、国軍の人事にも介入し、国軍司令官には西ドイツで一緒だったフェイサル・タンジュンを就任させました。国軍内部ではイスラムを指向するグループが力を持ち始め、ムルダニ元国軍司令官の息のかかった将校やハビビの副大統領就任を阻止した将校などは国軍幹部から一掃されました。
1994年6月、週刊誌『テンポ』は旧東ドイツの戦艦購入汚職を問題にし、その責任者であるハビビを批判する記事を掲載しました。ハビビは「スハルトの命令で行なった」と大統領スハルトを盾に疑惑を否定、スハルトもハビビを擁護し、『テンポ』は発禁となりました。ハビビは、メディアから「スーパー・ミニスター」とか「モンスター」とか呼ばれる存在となっていきました。
そして、ハビビは自身の管轄する戦略産業に留まらず、原子力発電、ジャカルタの地下鉄工事、国民車生産など様々な分野に入り込もうとしていました。このうち、国民車については当時、自ら長官を務める技術応用評価庁(BPPT)が中心となって1,000 CCの燃費のよい小型車の開発を指向しましたが、スハルトの三男トミーの「ティモール」が優先され、日の目を見ませんでした。
1996年後半になると、ハビビは政治の表舞台から影を潜め、代わってスハルトの長女トゥトゥが前面に出てくるようになります。ゴルカル幹部会で漁船の輸入問題が話し合われた際、あくまで国産船の使用を唱えるハビビをトゥトゥが一喝したと伝えられています。
スハルト・ファミリーに押され気味だったハビビの巻き返し戦略は、1998年3月の国民協議会で、5年前になれなかった副大統領になることでした。
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