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NETFLIX「SENNA」を観て思い出したこと
「今日、オオタニさんと打ち合わせの予定だったと思うんですが、主人は行けなくなりました」
1989年か1990年だったと思います。「TIサーキット英田(あいだ)」(現・岡山国際サーキット)のデザインチーフとひょんなことから縁をいただき、サーキットのオーナー会社との仕事が始まろうとしていました。
「サーキットのデザインワークは大体完了しているのですが、それ以外のパチンコ店やホテルなどの関連事業のデザイン作業が追いついていないので、それらを手伝って欲しい」ということでした。「(オオタニさんの)仕事が社内で評価されれば、サーキットももちろん手伝ってほしい」的なことも言われ、デザイナーとしては駆け出しだった私は、とても浮足立っていました。
とてもスマートな佇まいの建築家で、何度かの打ち合わせをして、事前のリサーチは概ね完了していて、そろそろ私からのアウトプットをする番だった矢先。奥さまから「今日の打ち合わせはない」という連絡でした。
その日の朝、急遽TIの社長から(ここら辺は記憶が定かじゃない)呼び出されて、高速道路を飛ばして山口市の本社に向かっているところ、スリップ事故を起こして、反対車線にまで体が投げ出されて亡くなったとのことです。
当時発売されたばかりのZ32のフェアレディです。シートベルトの根元がドアに付いていたあれが原因で身体が投げ出されたと、後に遺族が日産に対して訴訟を起こすような話もあったと思います。
あまりに突然だったので驚いたと同時に、まだ悲しみの真っ只中にあるだろう奥さまが、そうやって連絡してくれたことにも申し訳ない気持ちになったことも覚えています。
彼との縁が途切れたことで、サーキットどころかホテルもパチンコ店の仕事もなくなったわけですが、TIサーキット英田には未練がましく執着があったのか、何度か足を運びました。「F1開催」を大きな目標に掲げていてんですが、1990年前後のその瞬間は正直「そんな途方もない」と思っていたのも事実です。
しかしその後、そのまさかが現実になったのはF1老人会界隈ならご存じと思います。鈴鹿とは全く別日程で、秋の鈴鹿に対して春のTIという、日本で年に2回もF1が開催されるなんて、まさにバブル(はとうに弾けていたけど)な時代でした。
そして、1994年5月にイモラで亡くなったアイルトン・セナは、その前月、TIサーキット英田で行われた「パシフィックグランプリ」でポールポジションを獲得していたのでした(本戦はリタイア)。
「SENNA」ではTIサーキット英田のことは描かれていませんが、「あの」セナがTIを走っていたという事実が、日本のF1老人会には胸熱なんじゃないでしょうか(私もほぼ老人なんで、昔話ご容赦ください)。