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セロトニンの放出「ホロン」

 本日は、子育てを楽しむための「ホロン」について、書いて行きたいと思います。

①ホロンとは、部分でありながら全体としての機能・性質をもち、全体と調和して機能する単位のことを表します。それは1967年にアーサー・ケストラー氏が提唱した概念です。
自分が大きなモノの一部でもあり、またその一部が全体を創り上げているという相互関係なのです。
 例えば一つの脳細胞は、人間全体から見ればひとつの役割を果している細胞に過ぎませんが、全体からの指示を受けて役割を果します。
しかしながら一細胞から全体を観れば、たかが一つの細胞なのですが、全体の一部として生命の維持に貢献しています。
もしトラブルがあれば、違う機能をサポートする役割に転換することもできます。つまり全体と一部と言う役割は違っても、同じ情報を持ち、相互に連携を取りながら、バランスよく成立する関係となっています。
 もしも一細胞が全体とのバランスを無視して勝手に増殖し続けたらどうなるでしょうか、これはガン細胞に他なりません。
 やがては人間全体を死に追いやってしまいます。
 人間一個人と地球との関係がまさに、このホロンなのです。
逆に言うと、ひとりの人間が地球全体を変えることも可能なのです。
そしてメタバース時代のDAO自律分散型組織やブロックチェーンは、まさにホロンを体現するものなのです。
日本人は、欧米人のように個人主義の考え方で、強烈な「個」を主張するのではなく、また共産主義や全体主義を主張するのでもなく、世界全体とのバランスと調和のとれた「個」を主張できるようにならねばなりません。我々は個人であると同時に、日本人でもあるのです。関係無いどころか、その関係は絶対に切ることが出来ない関係で結ばれているのです。

②愛国、忠誠心を持てる
この力があれば将来、世界で通用する人になれます。
私の息子にとっては、コアラカップでの優勝が世界で戦える自信と、日の丸背負って、日本という国家に忠誠心を持てるようになる、大きなきっかけとなりました。
息子は中学三年生の時に、縁あってリトルシニアの日本代表として、オーストラリアで行われたコアラカップに参加する機会を得ることができました。
マイナーな大会ながらも日本の日の丸を背負い、憧れのジャパンユニフォームを着て国際試合を戦った経験は、息子にとって大きな財産となったことは間違いありません。
 日本と言う国への愛国心、そして日の丸を背負うことの責任の重さを自分の肌で直接感じることができたのは、一緒に戦った仲間たちや監督コーチの方々との人間関係とも併せて、何ものにも変えられない大切な財産になったのです。
 皆さんも、自分の子ども達を是非とも日の丸を背負える子どもへと育てて欲しいのです。世界が個人と繋り、個人が世界と繋るからなのです。
 我々は、日本を応援することで、日本人だという自覚を持ち、自分と選手を重ね合わせて応援することは非常に大切なことなのです。
 また中学時代に甥の高校が甲子園に出場した際に、甲子園まで応援に行った感動が自分も甲子園に出たいという気持ちを起こさせ、東京六大学野球の早慶戦への憧れが、自分の目標を定かにしたのでした。
 息子の高校野球や大学野球では、数々のプロ野球スカウトの方にも見学にきていただき大変お世話になりました。
伝統ある早稲田大学野球部の大学選手権優勝パーティーにも保護者としてご招待頂き、スカウトの方々にも良くして頂いたことは、親にとっても大きな喜びでした。もし大学野球を辞めなければという、親バカな気持ちも残っておりますが、本人がベンチャーという道を志した以上、今は応援するしかありません。
 ところで、書初めを自分で書くことは、自分の気持ちを心に刻むためにも非常に大切な習慣です。
「思考は現実化する」と言われているように、書くことで、書いたことが本当に現実になる可能性が高まります。
ですからメモ帳から日記、短冊なども非常に重要な機会です。
行事や習慣の中に貴重な伝統を織り込んだ日本人の知恵に他なりません。


③哲学
哲学が無いと人類は生き残れません。
パナソニック創業者の松下幸之助氏が水道哲学で、人々の幸せを考えたように、まさに哲学も水道の水のように、誰にでも簡単に手に入りますが、それが無ければ生きられない、とても貴重で価値の高いものなのです。
 水道のように、私たちの身近に当たり前のように存在する哲学なのですが、それこそが人生の本質であることに気が付かなければならないのです。
 哲学は、領域横断的な智慧であり、真理を探究する知的な営み、知を愛する営み、すなわち愛知を意味するのです。
ところで愛知県の名の由来は、万葉集のあゆちにあり、それは地名でもあり、海から吹いてくる幸福の風を意味するあゆち思想でもあるのです。
 今の愛知県、尾張出身の織田信長は、自分の居城にもあずち、と命名したことからも、あゆち思想が流れていたように感じてしまいます。
 知を愛することで、天下布武、日本がひとつにまとまり、日本人が生き残って行けるのだと私は考えます。
 ですから子ども達にも、哲学を身近に感じて欲しいのです。
なぜなら哲学は二つの観点からも有効だからです。
ひとつは哲学対話によって、子ども達の思考力が育つからなのです。
そしてもうひとつは、「探求の共同体」をつくることによって、人間関係の絆が深まり、シチズンシップが育つからなのです。
 いやいや、そんな効果を述べる以前に、子ども達との自由な対話は、何よりもまず楽しいからなのです。
 父親には、子ども達に哲学を教えることは、子ども達にとっての知のインフラを整備することを意味し、人生の基礎を築き上げることだと言うことを、強く認識して欲しいのです。
 さあ、今日から哲学の会話を始めてみましょう。

④国際大会
国際大会は、日本のDNAを改めて確認する場でもあります。体格、筋力、華やかさでは見劣りする日本人が、あっと驚くテクニック、チーム連携力、最後まで諦め無い精神力で、勝てる筈無いような相手に打ち勝つ姿は、日本人に自信と勇気を与えてくれるのです。
だからこそ、日本の子ども達には、自分の得意な分野でどんどん世界に挑戦して欲しいのです。
たとえ、馬鹿にされようが、笑われようが気にする必要はありません。
 プロ野球の世界でも野茂英雄やイチローさんは、通用しないと言われながらも、メジャーで成功してくれたお陰で、後に続く選手が出てきたのです。大谷翔平選手も二刀流など通用しないと言われながらも、実績を積み上げている結果、後に続く選手が出て来そうだからなのです。野球以外のどんな分野でも構いません。日の丸をつけて世界の舞台でプレーする価値は何モノにも代えられない価値があるからなのです。
 皆さんも子ども達を、その子が得意な分野で、ぜひとも日本代表選手に育て上げてください。
 お金でも名声でもなく、日の丸のために強い誇りを持って戦った人しか味わえない、強い誇りと自信を体験することが出来るからなのです。それらが、新たな時代を切り開くエネルギーの源だからなのです。
 例えば、日本のプロ野球選手が、日本代表の侍ジャパンに選ばれるのも、NPBで優勝したり、タイトルを獲得するのとは、全く違った次元の喜びがあるようです。それもそのはず、日本の各プロ野球チームの歴史はたかだか 年になり、フアンの数も限られますが、日本代表となれば、日本2000年?縄文時代から数えれば、1万五千年の歴史と最大1億2500万人の夢と希望を背負って戦うことになるからなのです。
 日本代表となって、国際大会に出ることで、新しい世界を観て、世界から日本を観ることが出来るようになるのです。そのような人間が増えれば増えるほど、日本という国が磨かれて、世界のお手本へと近づくことが出来るのではないのでしょうか。
 国際大会とは、日本人の大和魂を堂々と披露する機会となり、それを観た全ての日本人の大和魂を揺さぶる絶好の機会なのではないでしょうか。

⑤君が代
 君が代は、およそ1100年前に作られた古今和歌集から引用された国歌であり、宴会などの最後にお祝いの歌として唄われ続けて来た、世界で一番短い歌詞の国歌なのです。
 君が代の「君」の意味は、一般的に考えられている天皇陛下を意味するのでは無く、成熟した尊い男女のことを指すものだと私は解釈致します。
 君のキはイザナギの「キ」で男を指し、君のミはイザナミ「ミ」で、女を意味するという説があるのです。「いざなう男」と「いざなう女」を意味するということなのです。したがって、君が代の歌詞を解釈すると、
きみ=完璧に成長した男女が
代=時代を超えて
千代に八千代に=永遠に千年も万年も、生まれ変わってもなお
さざれ石の巌となりて=結束し協力し団結して、
苔のむすまで=固い絆と信頼で結びついていこう、
という意味になるのです。
 1880年(明治13年)に宮内省雅楽課が旋律を改めて付け直し、それにドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルトが和声を付けたそうなのです。
 オリンピック等の国際舞台で日の丸(国旗)が掲揚され君が代を聴くと、たとえ極端な愛国主義者でも右翼でなくとも涙がでるほど感動してしまいます。
日本の伝統と清らかさを感じ、「日本人よ立ち上がれ!」「日本人よ永遠なれ!」という気持ちにさせられます。
それは、君が代に大和魂が吹き込まれているからなのだと私は感じます。
 宮中で継承されてきた日本古来の伝統音楽である雅楽の律音階で構成されている事と、リズミカルでなく摺り足のようにゆっくり緩やかに動いていくことで、神聖な荘厳さを醸し出しているのも大きな特徴です。
 君が代を歌うことで、自然と子ども達にも大和魂が伝わるはずだと私は信じています。
 一方で、君が代をヘブライ語で解釈する説もあるのです。それらの解釈によると、意味は以下のようになるそうなのです。
立ち上がれ、神を讃えよ
神に選ばれし
イスラエルの民よ
喜べ残された人々救われよ
神の預言は成就した
これを全地に知らしめよ
と言うことのようなのです。
いずれにせよ、日本人が力強く生き続ける為の熱い気持ちが、君が代を通じて伝わって来るのです。

⑥ヴィジョン
 「ヴィジョン」とは、「将来のあるべき姿を描いたもの、将来の見通し、構想、未来図、未来像。」のことを表します(大辞林)
 例えば、「組織のビジョン」とは、「自分自身やチームメンバー、会社の将来の理想像や未来の光景」「成し遂げたいと思っているゴールや目標を手にした瞬間の映像」といった、将来なりたい姿の状態や光景のことであり、自分自身が実現したいことや実現した時のイメージをクリアに描いた「未来の青写真」である、と言うこともできるでしょう。
 ヴィジョンには、人や組織を前進、成長させる力があります。「ヴィジヨン」は目に見えないので、「ヴィジヨン」を誰もが目で見える形で示してあげなければなりません。
もし人々が、その「ヴィジヨン」に感動し、心が動けば、行動となってついてくるからなのです。ですから「ヴィジヨン」は、人々がワクワクドキドキし、感動するものであることを要求されます。
また、人々を感動させるには、人の心が読めなければなりません。
人の心も、目に見えないので、満面の笑顔や表情、発言から心を読まなければなりません。
 見えないモノが見えないモノを動かすのですが、その結果を多くの人が目に見える形で表すことが出来れば、大成功に繋がるのです。
 子ども達がそのようなリーダーとなれるよう、人の心の痛みが分かるような人間に育ててあげて欲しいのです。
人の心の痛みが分かれば、人の心の動きにも関心が持てるからなのです。人の心を動かせるような人間になることは、一つの大事な理想です。そして、その方向性とそこへ向かう理由も納得させなければなりません。そういう意味では、未来の様子や広い世界を見渡せる視野を持った人材こそが、リーダーにふさわしい人材だと言うことなのです。 
そして人々に、大きな夢とヴィジョンを堂々と語れることも重要な役割なのです。そのためには、日頃から1分間スピーチなどで、自分の意見を簡潔にまとめて発表し、人々の共感を得られるよう訓練しておかなければなりません。1分間と言う時間は、実際にスピーチをするととても長く感じられます。一方では、たったの1分間で言いたいことを全てわかりやすく発表するのも、難しいことなのです。もし1分間スピーチが上手にできれば、10分間のプレゼンテ-ションもできるようになり、それができれば、1時間であろうと、大勢の聴衆の前で講演をすることも難しいことではなくなるのです。
 しかしながら、人々の共感を得ることはそんなに簡単ではありません。ポジティブ思考で、人々の心が振動するようなスピーチができるように、努力し続けることがとても大切にはるのです。

⑦帰納法
 あらゆる論理展開は、 「演繹法」と「帰納法」の2つの基本パターンの組み合わせによって成り立っていると言っても過言ではありません。
 用語だけで考えると、とても難しく感じてしまうのですが、実はみなさんが普段から当たり前のように使っている論理的思考法なのす。      17世紀の哲学者ベーコンやデカルトなど、名前は聞いたことがあるかもしれませんが、これから「演繹法」と「帰納法」の違いを確認してみましょう。
「一般論」から結論を導き出す演繹法とは西洋建築のようにブロックを一つずつ下から順番に積み上げて行き、最後に大きな建物を完成するような方法です。 
演繹法には次の3つのステップがあります。
①決められたルールや法則を前提にする
②そのルールや法則に物事をあてはめる
③決められたルールや法則に合致しているか結論を出す 
 実際のビジネスシーンで演繹法を使用する場合には、「正解を導き出すツール」としての役割よりも、論理の道筋を他者と共有し、さまざまな可能性を検証するためのコミュニケーションツールとしての活用が期待されるのです。新しいものを開発して商品化するときや、組織構成を立案したり、物事の戦略を考えるときにも、過去の実績の上に次の展開を積み重ねるため、演繹法は適しています。粘り強い研究が実って新たな発見や成果を出す、努力家タイプがこの論法に適しているのではないでしょうか?    
 一方で帰納法は、木造建築のように、まずは大きな柱を建てて、全体的な枠組みや構造を明確にしてみること。 次に細かい部分を作り込んで行き、最後に建物を完成させる方法なのです。
「事実」から結論を導き出す帰納法は、複数の事例(状況証拠)から共通点を見出して結論づけているため、次の3つの点に注意が必要です。
①事例(状況証拠)自体が間違っていないかどうか
②事例(状況証拠)から共通点を見出す時に飛躍がなかったか
③共通点から結論に至る際に飛躍がなかったか
 天才的な人材が、閃いて大きな発明をするのはこの論法を使っているのかもしれません。発明というのは、既存のモノ同士の組み合わせから生まれるケースが多いからなのです。

⑧武道
「武」と云う字は、「二」と「戈」と「止」の三の文字が組み合わされ、「二つの戈(ほこ)を止める」という意味を持つ会意文字なのです。
 武の意義は、決して争闘を求めたり、敵を殺すことではなく、人と人との争いを止め、平和と文化に貢献する、和協の道を表した道徳的内容をもつものなのです。 
 武道とは「武の体」と「武の用」を合致させる道のことであり、武道の本質とは格闘の技術を修行鍛錬することを通じて、精神・肉体ともに健全な自己を確立することと共に、社会的にも積極的に不正や悪と戦っていける勇気と行動をもった人間を作っていく「人づくりの」大道なのです。
 武道の本質というのは、己に克ち、自己を確立し、人を生かして我も生き、人を立てて我も立てるという「自他享楽」の理想郷を実現する道なのです。
 したがって、真の武道のあり方は、人を倒し、人を殺す技術を修める道としてではなく、「己を修め、己に克ち、人を生かして、己も生きる」という済世利民の道でなければならないのです。
 ひとたび「道」と言う漢字が入ると、それは単なるスポーツや文化を超越した、修行の道を意味することになるのです。修行と言うことを考えて柔道や茶道を考えると、よりその本質的意味を理解出来るようになるのです。
 そのように考えると、日本の国技相撲は、神聖な神事であり、かつ相撲道であることがわかります。
 またアメリカのベースボールと日本の高校野球との違いは、日本の高校野球が単なるスポーツでは無く、野球道だと言うことも理解出来るのです。
 それがわかれば、なぜ頭を丸めなければならないの? なぜ5打席連続敬遠してはいけないの?なぜサインを盗んではいけないの?なぜ判定に抗議してはいけないの?と言った疑問は出て来なくなるのです。
 英語のDOは行動することを意味しますが、日本語の道は修行を意味するのです。
 私はプライベートでfightdoと言う格闘技系のエアロビクスを楽しんでいますが、アルゼンチン発祥のエクソサイズなのです。
名前にDOが入っているように武道的な動きや呼吸法、挨拶が取り入れられており、個人的には楽しむ修行のように捉えて活用させてもらっています。

⑨世界で通用する人
愛国心、忠誠心があれば将来、世界で通用する人になれます。
日本国への愛国心、忠誠心が私達のアイデンティティを高めてくれると同時に、世界平和への推進力となってくれるのです。
 それは、世界の人々が本当に求めている理想の社会なのですが、西洋文明的な弱肉強食、暴力、強奪の思想では実現が不可能なのです。
 日本人の適者生存、共存共栄的な思想と、ルールを守り、互いに支え合う習慣こそが実現には必要となるからなのです。
 日本人の一人一人がそれを実現することで、世界で通用する人になれるのです。

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