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島津義弘は何故最強だったのか

 島津義弘は、戦国時代の日本最強の武将だったと私は評価をしていますが、日本ではあまり有名になっておりません。多くの日本人が、島津義弘を知り、お手本にして欲しい程、偉大な武将なのです。日本では「鬼島津」の名で呼ばれ親しまれています。
島津義弘が強かった10の理由は、
①大和魂を持ち、厳しいながらも人格者であり、カリスマリーダーとして軍や藩を一つに結束させる力があったことです。
② 絶対に逃げない不屈の精神を持ち続け、玉砕覚悟で死を恐れず前に進んで行けることです。
③冷静な判断力と奇襲作戦で、たとえ少人数でも大軍を打ち負かす戦闘能力がありました。
 中でも一番の活躍は、豊臣秀吉の朝鮮出兵、慶長の役での活躍でした。
慶長3年(1598)9月から10月にかけて、豊臣秀吉の死の情報に力を得た明・朝鮮連合軍は、日本軍が拠る倭城に攻勢をかけました。
そのうち明の董一元(トンイユァン)率いる軍が襲ったのが、島津義弘の拠る泗川倭城でした。
この時、董の連合軍は37000前後(一説に20万)といわれ、一方の島津軍はたったの7000でした。数百で拠る川上忠実は敵の囲みを突破し、撤退しますが、150人が討たれ苦戦に義弘の息子・忠恒は古城救援を主張しますが、義弘は頑として許さず、川上らが新城に撤収するのを待ちます。一方、川上は部下に敵の食糧庫を襲わせ、その焼き討ちに成功しました。これによって大軍の明・朝鮮連合軍は兵糧を失い、短期決戦を余儀なくされました。
④★釣り野伏せ戦法(つりのぶせ)
釣り野伏せは、島津義久により考案・実践されたと言われている戦法の一つです。
 逃げると見せかけ、相手を引き付け、相手が調子に乗って侵入して来るのを待ち、ゴキブリホイホイのように、相手を一網打尽に全滅させる戦法なのです。
 10月1日早朝ら明・朝鮮連合軍は泗川新城に押し寄せました。義弘はぎりぎりまで敵を引き付けた上で、鉄砲と大砲を一気に放ちます。
虚をつかれて混乱する連合軍を、義弘が城外に配していた伏兵が襲いました。
これが島津軍の御家芸「釣り野伏」を応用した戦法なのです。
 義弘は泗川古城を「釣り」、新城を「野伏」に見立てていました。伏兵が敵の隊列を寸断して混乱に拍車をかけると、連合軍の後方では火薬庫が引火して大爆発が起こります。背後の火薬庫を意図的に責めてパニックを起こさせたのです。
この機に乗じて、義弘率いる島津軍は城門から打って出ました。
 この時、扉が前開する前に素早く攻撃に出た様子は、「島津の半扉」と呼ばれています。
 もはや連合軍の混乱は収拾がつかず、義弘自ら4人の敵を討ち、忠恒は7人を斬ったといわれます。連合軍は総崩れとなり、追い討ちをかけた島津軍は一説に、実に3万7000の敵を討ち取り、味方の犠牲はたった2人という奇跡的な大勝を挙げました。
⑤「鬼石曼子」(グイシーマンズ)
 日本では鬼島津と呼ばれて恐れられた島津義弘ですが、「島津」のことを発音から、明では「石蔓子」と表記しており鬼石曼子」すなわち「鬼島津」と呼ばれています。
この大敗北に、明軍は日本軍に和議を申し入れ、島津軍は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれて、敵軍の恐怖の対象となりました。
 しかし、朝鮮水軍の李舜臣(イスンシン)は講和を潔しとせず、順天城の小西行長の帰途を阻み、海上を封鎖しました。
ここで義弘は小西軍の救援を決断、海路西に向かって11月18日未明、露梁津(ノリャンジン)海峡で待ち伏せていた朝鮮水軍と激突します。
そして互いに相手の船に乗り込む白兵戦を演じ、義弘ら日本軍は三分の一以上の兵力を失う苦戦をしながら、敵将・李舜臣を討ち取り、朝鮮水軍に大打撃を与えました。
 島津義弘の援軍により、小西軍はこの隙に、順天からの脱出に成功します。
目的を果たした島津軍は12月10日には博多に戻りました。日本が宿敵李舜臣に大勝利し、朝鮮撤退に成功したのです。
これらの活躍により島津家は、朝鮮出兵に参戦した大名としては唯一、恩賞として加増されることになります。
⑥★捨て奸(すてがまり)
捨て奸は、戦国時代に薩摩国の大名島津氏により用いられたと言われる戦法の一つです。
 天下分け目の関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍がほぼ勝敗を手にし、西軍に加担した島津義弘は劣勢で絶望的な状況に追い込まれてしまいました。その様な状況下で、徳川家康の本陣を正面から突き抜けて、敵中突破をした島津義弘の戦法が「島津の退き口」(座禅陣)なのです。
島津義弘が突破した後に、追手を振り切る為に命懸けで相手を倒し、大将を守る戦法が「捨て奸」なのです。忠誠心に熱く特攻隊の様に自分の命を捨てなければ出来ない、大和魂の賜なのです。
⑦兵糧、弾薬庫、軽卒への裏攻撃
相手の気の弱さにつけ込んで、パニックを起こさせて、動揺を誘うことで大群と言えども烏合の衆になることを見通した作成を行いました。
⑧部下や動物をも大事にする人情派
島津義弘は、部下を大切にするのは勿論のこと、動物も大切にし、愛馬である膝跪騂(ひざつきくりげ)の墓を立てています。
また、朝鮮出兵の際に7匹の猫を連れていき、猫の目の瞳孔の開き具合で時刻を推測し作戦を立てたといわれ、最後は猫神社で祀りました。
⑨位の高い武士ほど最後に撤退する
泗川の戦いでも、撤退は位の低い武士がら撤退し、島津義弘は全員の撤退を見届けてから、最後に撤退したのでした。
⑩正義を貫き、奇策は使うが決して倫理に反する汚い手は使わないことが、武士道であり、大和魂なのです。
 島津義弘の戦法は、現代においても有効であり、韓国も一番恐れている日本人なのです。

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