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ワイズマン、グスマン、そして空語

「憲法が『空語』で何が悪い。」
今週号の週刊金曜日に、内田樹さんがこれまで繰り返し主張してきたこの言葉を見つけた。吐き捨てるのではなく、そのあとには大切なことが続く。
「ただし、それは『満たすべき空隙を可視化するための空語』、『指南力のある空間』、『現実を創出するための空語』である。」と。
 
 それは理想を謳う大きな旗のようなものだ。理想なんて青臭いというひとたちは、やたらと「現実」を持ち出す。「現実」にそぐわないという。理想なんぞ所詮絵に描いた餅で、腹の足しにもなりはしないという。
 たしかに理想を語るのは、時に虚しい。それに並々ならぬ体力も必要だ。しかし理想や理念は、発話した瞬間に、ひとを「実現」という新たな現実的な行動へと駆り立てるからこそ意味がある。夢や理想を口にするひとをあざ嗤い、さげずむことは、そのひとの実現への意志と努力を軽んじることになる。だめでどうにもならない現実に理想を合わせるのは、本末転倒などころか、ひとの品位や善くあろうとする志を「無」とするに等しい。
 
 一昨日は早稲田松竹で、フレデリック・ワイズマンの「ニューヨーク、ジャクソン・ハイツへようこそ」を、そして昨日は下高井戸シネマで、パトリシオ・グスマンの「チリの闘い」三部作を観た。
 この二つのドキュメンタリー映画に共通しているのは、あふれる言葉だ。とにかくでてくるひとたちの身体から、これでもかというくらいの大量なことばが溢れでてくる。
 
「ジャクソン・ハイツ」では、ニューヨーク州屈指の多民族居住エリアならではの困難や悩み、そして今日にいたる歩みやこれからのことが、実に切実かつ真摯に語られ、話し合われる。家賃の高騰や大企業の進出によって、街そのものが変えられようしているという「現実」に飲まれながら、いかにして多様性を謳い、マイノリティーを重んじ、差別のないコミュニティーを維持し創出していくか。そこに暮らすひとたちは、それを徹底的にことばにして声をあげ、討論する。
 
「差別をなくそう!」に対して、「差別はなくならないよ。まわりを、世界を見てみろよ。」とうそぶくのは、簡単だけれど、それではひとは向上しない。
「差別をなくそう!」は、空語かもしれない。でも空語をクソ真面目に追いかけることはとても大事だと思うし、理想に近づこうとするひとの足をひっぱることだけはしたくない。
 
 ニューヨーク州の話ながら、これほど英語がでてこないとは思わなかった。長い時間をかけて築いてきた多民族共生のコミュニティー、そしてLGBTへの偏見と差別との闘いの歴史が、たとえば大資本の企業戦略という大きな力に飲み込まれようとしている。
 おそらく空語は、そういうピンチのときにひとびとの心の支えや指針となってくれるのだ。絵に描いた餅が、気持ちや勇気や意志を、力強く後押しするのだということがよくわかった。
 
 おなじく「チリの闘い」でも、労働者たちの果てしなく溢れ出ることばを聞くことになる。まさにジョン・コルトレーンのSHEETS OF SOUNDを彷彿とさせられた。
 そしてその多くが、民主主義の実現、さらには、理想とする社会主義の実現を強く謳うことばである。1970年代初頭の南米において、なかば実験ともいえる共産化への運動は、これほどまでのことばが推進していたのだとあらためて知ることになった。
 
 旧体制派、富裕層、キリスト教徒、軍人そしてアメリカ帝国主義などから、執拗な妨害と抵抗に遭い、追い詰められ、危機に瀕しているからこそ、彼らにはことばが必要だった。もちろんその理想を語ることばの何十倍もの努力をし、身体全部を動かし続けた。そのさまをグスマンは美しい映像叙事詩として記録した。
アジェンデ大統領がどうなったか、その後、チリはピノチェト軍事独裁政権下でどんな道を歩んだかは、いまとなれば自明なことだとはいえ、ぼくが小学校の高学年だったあの牧歌的な時間に、世界の反対側でこのような苛烈な事実があったのだとは夢にも思わなかった。
 
 しかしこうしていま、溢れでることばの山を前に知ることができ、そして学ぶことができる。
 ぼくたちに一番欠けているのは、理想をことばにして出すということなのではないだろうか。そしてその理想をどうしたら実現できるかを、真剣に話し合うことではなかろうか。
 「空語で何が悪い」。
あえてそう思う。大切なのは理想を実現しようとする意志と努力なのだ。それをあきらめてしまったら、まさに身も蓋もない人生になってしまうだろう。

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