終焉への誘惑
人はつい、「終焉」について語りたくなる欲求と衝動にかられてしまう。「終焉」を語ることは一見内省的であるかのようにみえる。しかし多くの場合は、遡行し、探求し、批判するという階層にまでいたらないまま、「終焉」にともなう「次なるもの=新しいもの」の誕生を無根拠に担保する隠れ蓑に使われるのみである。
以前、あるタレントが自ら主演した映画についてテレビで、得意げにこううそぶいた。
「いままでの日本映画にはないものができました。」
自信たっぷりな表情とともにその映像と音声がながれる。
それをみながらぽつりと思う。
「でもそれをいうほど日本映画を観ていないじゃない。」
彼はなにをもってそれを「日本映画」と呼んだのだろう。そのなかには稲垣浩や伊丹万作、溝口健二や小津安二郎、成瀬巳喜男や伊藤大輔といった監督たちの映画、その他巨匠やそうでない監督たちが作った無数のフィルムのいったいどの部分が含まれているのだろうか。
もちろん全部とはいわないまでも「日本映画」を語るに際して、どれほどの時間と労力を彼は費やしたというのだろうか。
一本一本劇場に足を運び、見知らぬ観客とともに喜んだり、涙したり、恋したりした経験、スクリーンから人生の大切さを幾度となく処方してもらった経験が、どれだけあるのだろうか。
そんなに大げさに目くじらをたてることではないということは十分承知している。そんなことをすれば野暮として笑われる損な役目を負わされてしまう。
なぜなら彼は主演した映画を宣伝するために、「イメージ」を語っているにすぎないからである。
これはきわめて広告的な所作であって、そのタレントが実際に日本映画とどうなのかというのとは全く関係ないし、それに対しての責任もない。
つまり「日本映画を観てないじゃない」というのは、洗剤のコマーシャルを見ながら「そんなに汚れが落ちるわけないだろ」とつっこんでいるのと変わりがないのである。
広告はつねに「イメージ」を流布することに専心してきた。
そして「イメージ」の中心になるコードは「新しい」である。「新しい」をプライオリティの最上位に掲げられた「イメージ」の量産は、これまた数えきれないだけの「終焉」を無意識に示唆することになる。
「終焉」とはおそらく「新しい」と同様、刺激的であるがゆえに、もっとも広告的なことばのひとつなのだと思う。
「イメージ」の流布が、中心を保ちながら蓄積されるもの、積み上げられるものとしてあれば、それはブランドとして確立されていくだろう。
しかし「終焉」という刺激的な更地に建った「新しい」イメージは、ぱっと見るとピカピカだが、またすぐ更地になる運命を知ってか、堅牢さも力強さもない。そこにあるのは一時的な刺激とニュースだけだ。
小泉総理は、劇場的、テレビ的、はたまたワイドショー的といわれた。それに対して「戦後レジームの終焉」と「美しい日本の創成」を唱う安倍総理は、ある意味でまことに広告的であった。その広告的な内閣が、どんな末路をたどったかは衆人をもって知るところである。
安倍的なものの末路は、「イメージ」や「新しさ」を語ることが何かであった消費パラダイス時代の「終焉」を、いみじくも物語っているのではないだろうか。
そしてまた、そのまま広告がずっと担ってきたひとつの姿の「終焉」であるかのように映る。
万が一、「終焉」について語る誘惑にかられているとしたら、それを語る視座と対象に対して深く内省することが肝要である。
入れ物自体の構造や内実はいっこうに変わらないまま、張り替えられた壁紙だけを見て「終わり」を語ることほど、もはや時代は悠長ではないはずだ。
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