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憲法記念日の次の朝

 ゴールデンウィークまっただなか、ガスト高崎店の朝はとても清々しいです。非常事態だの緊急事態だのというキツイことばにもすっかり慣れて、もうそんじょそこらの事変では驚かなくなっている自分に気がつきます。空爆とかにあって、目の前のビルが瓦解し、そのなかから血だらけになったひとたちが走り出してこないとね、くらいの麻痺レベルに達していて、ああ、これが非常事態なのだと気がついたときには、死ぬ直前だったりするのでしょう。

「自粛」もすっかり板についてきたといいましょうか。禁酒令まででて、それでもへこへこ従っているわけですから、公共の仮面を被った権利の剥奪権限は、これからもなし崩しに、どこまでも個々人のなかに踏み込んでいくことになるでしょう。
 その証拠に、火事場泥棒的な改憲動議が、憲法記念日を口実に行なわれたりしています。「緊急事態事項」の盛り込みなど、まさにコロナで馴染みになった「緊急事態」ということばの、上物だけ借りて中身をすりかえようと画策する破廉恥な言説が、まやかしのように行なわれようとしています。言っている本人すらその厚顔に気づいていないことが、逆説的にこの国の「緊急事態」にほかならないと思うのです。
 あたかも憲法に「緊急事態事項」がないから、コロナ対策がスムーズにいかないかのような、責任転嫁とサボタージュは、どこか憲法の改変を目論んだ意図的な振る舞いのようにも見えてくる。そんな昨今の動きです。

 ぼくたちはこの一年、非常事態、緊急事態下での生活と心持ちをいやというほどシュミレートさせられてきました。いまは新型ウィルスの感染ですが、次なる緊急事態は、アメリカとともに起こす戦争かもしれません。
 そのときコロナで培ったフォーマットがそのまま移行し、マスク警察よろしく個人が個人を縛るシステムが活用され、監視と権力の介入が、大義の名のもとに横行し、人々はなんの疑問も持たず服従することになるでしょう。
それを許す空気に、すっかり慣らされてしまったことに驚きます。どこからか湧き出てきた改憲を求める声が、日々大きくなっています。ガスト高崎店の大きな窓から見える牧歌的とも言える平穏さのなかに、そんな市井のひとびとのシュプレヒコールが幻聴のように響きます。
7年前の講演会で、辺見庸はこう問いかけました。
「じつは我々は自由を求めていないんじゃないか、不自由を欲しがっているんじゃないか。」

 憲法というのはビジョンです。戦争をしやすい国にするのではなく、戦争をしにくくする国に。そのためにひとりひとりが身体を張って自由を求めていく、自立していくことが大切だと考えます。いろんなことを容易に放棄してはいけないと、「憲法記念日」の次の朝に思いました。
 

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