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ラジオな時間

 引越しに慣れているわけではないが、たくさんあった段ボールは三日ほどですっかりなくなり、箱から取り出された生活の品々は、新しい配置場所に落ち着いた。
 この引越しを機会にテレビをやめた。テレビがなくなって朝の音がずいぶんと変わった。五時を過ぎたあたりから台所に立つ家人の横で小さなラジオが鳴る。災害用にと持っていた粗末な作りのトランジスタラジオが、テレビにかわって朝の音として活躍している。いいスピーカじゃないせいか、なんとはなしに出てくる音が昭和な感じだ。

 ふとん店を営んでいた昭和のころ、その二階の一室は職人さんの作業場だった。お昼を知らせにはいると、綿ぼこりが舞うそのかたわらではいつもAMラジオが鳴っていた。あのときの音に近いように思う。ラジオのなかで話しているひとも内容も、まるで五十年間変わっていないかのような錯覚におちいる。
 radikoを通してパソコンで聞くとAMの番組もちゃんといまの音がしているので、やはりあの小さなトランジスタが独特な音の質感を作っているのだろう。

 気のせいか朝の時間がゆっくり流れるように感じる。ラジオのなかの昭和な声のキャスターは、なにをしゃべっているのだろうと興味を持って耳をすますと、意外なことにいま世のなかを騒がせている時事問題や経済のこと、世界のニュースなどだ。この時間帯に見ていたテレビのワイドショーよりもよっぽど情報が濃いことがわかった。
 とはいえ基本的にはあまりそばだてることなく、朝の音のひとつとして鳴っているだけだ。ごはんを食べ終えて、しばらくしたところで止めてしまう。しんとなって扇風機と開けた窓から入ってくるの音だけになる。

 テレビの音は詰め込みすぎだと思う。たくさんに詰め込まれた音が、あたかも静寂という隙間を恐れるように、生活を埋めていく。
 圧縮された音楽、派手な効果音、大仰な笑い声、顔のまえで打つ拍手、かしましい広告、それらの音が、映し出される映像に刺激を与え、ぐっと前へと押し出す。
 NHKのように、ニュースを読むだけの報道番組がいつの間にか退屈に映るようになった。つい民放にかえてしまうのは、悲痛なニュースには悲しい音楽が流れ、投稿映像には迫力あるSEがつき、場面の展開にはジングルで知らせてくれる、そんな番組の音作りだからではないだろうか。
 音がいつの間にか、情報そのものに色をつける役目を買っているのかもしれない。犯罪被害者の情報の奥でひっそりと流れる音楽が、加害者への憎悪を駆ることになっていないかと案ずる。
 そんなことが気になりだしてから、テレビをやめたいと思っていた。見る番組を選べばいいだけの話かもしれないけど、実際にはそうもいかなかった。

 いまは朝も夜もとても静かだ。パソコンで映像を見たりもしない。ときどきステレオからニールヤングやビルエバンスが小さく流れる。
 お酒を飲んでうつらうつら。すぐに眠くなって、遊びつかれた小学生のように早くにベッドにはいってしまう。そして、うっすらとした光の朝、きょうもトランジスタラジオの音で目が覚める。


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