「夢の間の世の中」
気がつくと、邦画はドキュメンタリーばかりだ。以前はドキュメンタリーというジャンルがあまり好きではなかったので、観ることもなかったのだが、このところドキュメンタリーづくしだ。
数日前には試写会ではあるが、森達也さんの新作「FAKE」を大いに楽しんだ。この興味の転換はどうしたことかと思うが、その一端に、日本の劇映画に興味を失っていることは、どうにも否定できない。
この数年で観たのは「恋人たち」くらいではないだろうか。もう少し観ているのかもしれないけれど、どれもすぐに浮かんでこない。
昨日も終映間近のドキュメンタリー映画「夢の間の世の中」を、東中野ポレポレで観てきた。こうしてドキュメンタリーが好きになってくると、この映画館の会員になりたいと思い、受付でたずねてみたが、会員というシステムはないそうで、残念だった。やはり1800円というのはきつい。でもドキュメンタリーを製作するひとたち、上映するひとたちはもっときついのだろうから仕方がないか。
「夢の間の世の中」は、袴田巌さんとその姉秀子さんを綴った映画だ。袴田さんを撮るというのは、すごく真っ当でありながらも、その描きかたは、その実、かなりむずかしいのではないか。ストレートど真ん中ゆえの難しさというか、そこにはさまざまなステレオタイプの落とし穴が張り巡らされている。
「袴田事件」という、あまりにも重い、確定死刑囚の冤罪事件は、それをなぞるだけでも立派な記録映画になってしまう。観客はどこまで「袴田事件」を知り、関心を持ち、自らのなかに落とし込んでいるのかを頭のすみに置きながら、どこにフォーカスを置いていくのかの匙加減がとても微妙だ。
袴田巌さんと秀子さんという、ある意味で地獄の底から這い上がってきた、強く、大きい人間、あるいは誤解を恐れずに言えば人間以上の、怪物のような「なにか」と向き合わなければならない監督やスタッフは、おのずとその技量や知性や人間性を激しく問われたことだろう。
それをいやというほど感じていただけに、なかなか劇場に足が向かなかった。果たして映画はうまくいくのだろうか、もしだめだったらと、そんな心配のようなものがあったのだ。
しかしどうしてもやり過ごすことはできなくて、思い切ってポレポレにでかけた。そしてうれしいことに、そこには骨太の、この上なく素晴らしいドキュメンタリー映画があった。
ぼくのちっぽけな杞憂は、上映がはじまってすぐに吹き飛び、金監督が、最も適した距離のもと、巌さん、秀子さんとどうように向き合ってきたのかを知り、ゆったりと安心して身を任せることになる。
ちょうどいい距離とは、もちろん観客であるぼくらにとって一番ありがたい距離のことだ。寄り過ぎず、引き過ぎず、ひとそのものをしっかりと観ることができる距離。これができる優秀なドキュメンタリー作家が、すぐ近くにいてくれるというのは、ほんとうにありがたいことだと思う。金聖雄監督も間違いなくそのひとりであることが、この映画で明らかになった。
「夢の間の世の中」は、これからずっと先、「袴田事件」とその当事者であった巌さん、そして弟の無罪を信じて、その人生のほぼ全てを捧げた秀子さんを、のちのひとたちに伝えていく大切な、大切な映画である。
いつかこの国からも死刑制度はなくなることだろう。その日を迎えたころ、かつてこのような時代があったと、胸に刻みながら観る映画として、「夢の間の世の中」は、ずっと残っていくと信じている。
それはいつのことになるだろうか、はたまたそんな日はこないのかもしれない。しかし死刑制度について知ること、考えることは、意味のないことではない。昨日も映画館をでて、夕暮れどきを歩きながら、ひとしきり思いをめぐらせた。
ふたりの死刑囚の刑が執行された日に記す。