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リアリティの温度

映画ってすごいなと思うときがあって、それはどういうときかというと、好みとかが一瞬にして変えられていることに気づくとき。

食べ物だと、以前はじゃがいもが嫌だった。そのパサパサした食感とか中途半端な味とか、口のなかの水分奪われるようで、どうにも食べるのを敬遠していた。
で、あるとき「ニーチェの馬」っていう映画を観て、それはただただ親子でじゃがいもを食べるだけの映画なんだけれど、観終わったらもう、それこそいますぐにでもじゃがいもが食べたくてしかたがなくなるくらい好きになっていた。もちろん家に帰ってすぐにじゃがいも茹でて食べて、食べまくって、それ以来今日までじゃがいもが大好物になっている。

「人生フルーツ」という映画を観たときも同じことがあった。それまで木でできたスプーンというのがどうにも苦手で、あれを使うとなにを食べても美味しくないと、いまで言う紙のストローみたいな感じが強烈にあったのだけれど、「人生フルーツ」を観たあとに、まったく抵抗なく木のスプーンを使っている自分に気がついた。これはいったいなんだ。洗脳かとすら思う。

あと女性の好みが180度変わったことがある。「アデル、ブルーは熱い色」という映画で、さんざん素敵な女性たちの姿を見せられた。それまですきっ歯のひとはかなり好みの的からはずれていたというか、圏外だったのだけれど、具体的にはレア・セドゥ、彼女に完全にやられてしまい、以来すきっ歯の女性が好みのセンターにきていたりする。

そんなふうに映画で人生や好みが知らぬうちに変えられることがいやなので、最近はあまり映画は観ないようにしている。無駄に忙しいこともあるけれど、なんか用心する気持ちがないでもない。

今年も数えるほどしか観ていないけれど、ホン・サンス監督の「小説家の映画」は、ずしっと残っている。とにかくスタッフが少ない。え、ひとり?監督だけ?みたいな小さな映画なんだけれど、すごくいい。
キャメラアングルが決まって、そのなかで役者が芝居をする。表情を撮りたいなと思ったときにはヘタクソなズームをつかうのが唯一の撮影技術だったりする。

しかしそこには計り知れない緻密さと入念さがある。その繊細さが、これまでの映画撮影の作法、様式、技術とはまったく交わらないところがなんともいえず快感で、もはや10人以上スタッフがいる撮影には参加しなくていいかもとさえ思いだしている。でも同時に少なくてあることはとてもむずかしいということもわかっている。それを押してなお身軽でありたいなと思う。

時間潰しで観た「星くずの片隅で」も、以前だったら、これはないでしょ、だめだこりゃと思っていた内容なのに、なぜか心に残っている。ストーリーだったり、撮影の筐体ではなく、そこに映っているリアリティの温度こそが大切なのかもしれないと思ったりする。

いずれ翻弄されることの多い人生であることは間違いない。映画には要注意だ。


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