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HOW DOSE IT FEEL ?

 今日は国会で、そして大阪府議会でそれぞれ集中した審議が行われた。午前9時から夕方まで、衆参の委員会審議に通して参考人として出席された前川前事務次官、そして大阪府議会でひとり矢面にたった籠池さん。かたやテレビ中継、かたやインターネット中継をかわるがわる見ながら、おふたりの心中を思わずにはいられなかった。

 「国にたてをつく」というのはいったいどういうことなのだろう。しかもたったひとりで、敵陣のなかにわけいっていくのである。国会も大阪府議会も、そこにいるのは権力の太鼓持ち、幇間のたぐいだらけである。自己の保身に恋々とした、「義」のかけらもないような政治屋ばかりのなかで、前川さんは文部官僚としての矜持を、そして籠池さんは権力の横暴ともいえる圧殺に対する全身の抗議を、それぞれ示してみせた。しかもおふたりともにこのうえなく立派な答弁と言論をもってのぞんでいた。
 そのとき、いったいどんな気持ちなのだろう。ぼくはそう思ってみていた。権力に立ち向かうとき、ひとはなにを思うのだろう。官房長官の答弁に真っ向から反対の意見をのべるとき、なにを思うだろう。
 前川さんは官僚として実に長きに渡って霞ヶ関で献身的に仕事をしてこられた。それゆえに権力というものの甚大なる力やその怖さを、世間のだれよりも知っているはずである。

 自分の身体の何百倍もの巨大な怪物にひとり向かうとき、いったいどのような覚悟あるのだろうか。ぼくのような、まったくもって無責任な一粒の砂には、到底計り知れない覚悟と意思があってのことかと、おぼろげに推し量るばかりである。
 それは籠池さんも同様である。菅野完さんのツイッターから籠池さんを評した一説を引用する。
「あのな。籠池のおっさんて、クソレイシストで、アホで、詐欺師でどうしょうもないけど、国家による弾圧を骨身にしみて感じると、人権とか、議会制民主主義とか、デュープロセスとかの重要さに気づくの。
諸君ら、いつ気づくの?ねぇねぇ。諸君ら、いつまで寝てるの?」
 菅野さんが言う通り、クソレイシスト籠池さんは、長年の夢だった国粋小学院の開校を目の前にして、この数ヶ月、急転直下の国家弾圧にあっている。籠池さんは矜持とかそんなことではなく、全身全霊の、死を賭した闘いを、国や地方自治体と繰り広げている。その気持ちや覚悟とはいかばかりだろうか。

 いずれ前川、籠池両氏は、ある意味で、命がけで「こと」にあたっているのは明らかだろう。しかして、かれらが向き合っている相手は、安倍首相、松井知事をはじめ、和泉補佐官、藤原審議官、木曽氏、かれらすべてが委員会、府議会を欠席している。そして、内閣府、理財局からはなにひとつ資料がでてこない。これは命をかけた論戦から逃げているとしかいいようがないと思わざるをえない。
 果たしてぼくらはどちらの主張を吟味し、信用するべきか。かたちだけの議会開催をもって疑問の解明とし、ただひたすらに時間の経過を待つ側の、いかなる正当性を認めることができるというのだろうか。逃げてばかりでは、公平に見ようとしても、その機会は失われるばかりだ。
 どうか、すくなくとも「議論の場」にでてきてもらえればと思う。ぼくたちは、それをしっかりと見届け、自分たちなりの判断をする。逃げまどった結果が、先日の都議会議員選挙の結果であったなら、そしてそれを「厳粛に受けとめる」のなら、きょうの審議とはまたちがった行動のしかたがあるのではないか。

 前川さん、籠池さんの、ひととしての立派な態度、すくなくとも逃げない態度におおいに劣る権力の中枢のありかたを、ぼくたちは記憶し続けなければならない。これは時間が解決する問題ではない。多くのひとが抱く疑念が、このままのらりくらいと示されないのであれば、市井のひとびとは街に出て、その意志を全身全霊をもって表現しなければならなくなることと思う。
 そのとき、ぼくたちは街頭にたって、いったい「なにを感じる」のだろう。

 

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