水の底
陽は傾きだしたものの、友人との待ち合わせ時間まで、まだいくらかある。
この公園には何度か来ているが、未だぐるりとまわったことがない。というのも映画館や展覧会場を擁するホールや、サッカー場、野球場、陸上トラックまでそろった、なかなかの敷地面積なのである。すぐ通りをへだてたところには大きな川が流れる土手があって、どこまでが公園なのか一瞥しただけでは判然としない。
とりあえずサッカー場のほうにむかって歩いてみる。
するとすぐ目にはいってきたのは、大きな池である。夕日にきらきらする水の様子は映るものの、柵があってなかにははいれない。しかしぼつりぽつりと人影が見え、みな釣り糸をたらしている。板などもはってあり、どうやらここは釣堀らしいと合点した。
この公園にそって流れる川のむこう側で育ったせいもあるが、子供のころはよく川に釣りにいっていた。当時は高度経済成長期で、大気や河川の汚染が激しく、かつては鮎がいたといわれたその川もまた例外ではなかった。もはや魚たちが暮らすにはもっと上流にまでさかのぼっていかなければならなかったのである。
それでも流れがたまった小さな池で、ブタ草を割ったなかにいる黄色い虫をエサに、せいぜい五センチほどのくちぼそを釣ったりしていた。
休みのときには祖父がよく釣堀に連れていってくれた。
鯉が釣りたいときはひとつ向こうの駅までいって、環状線の道路脇の釣堀へ。へら鮒なら高級住宅地で知れた閑静な場所のつきあたりに静かに分け入って行くのだった。 どちらかというと、鯉つりのほうがダイナミックで好きだった。大きなのがかかったときなど、水のなかに引き込まれそうになるほどの力に、我を忘れて竿にしがみついたものである。
そしてその日も鯉を釣りに、祖父とでかけた。
しかし行ってみると、建物には「臨時休業」の文字がかかっていてはいることができない。どうやら魚がいる堀の水をさらって、大掃除しているらしい。 あきらめて帰ろうとしていると、なかから釣堀のおじさんがでてきて、常連だったぼくと祖父に声をかけた。
「坊主、ちょうどいまヌシがでてきたから、みていかないか?」
ヌシとはなんだろう。
手招きされるがままになかにはいってみて、驚いた。
何人かの大人たちの足元には、大きな棺桶のような青いいれものがあり、そのなかにいままで見たこともないような大きな鯉が横たわっていたのだ。
「どうだい、お前より大きいぞ。2メートル以上あるんだ。」
ぼくは目をくるくるさせていた。こわごわと寄っていくと、身体中に無数の傷がある。
ぶつけてできたものや、それがもとで皮膚の病気になったものなど、白い肉がうろこの下のあちこちからのぞいていた。
引き上げられたばかりで、ホースで水をかけられながら、その大きな鯉は、呼吸困難の口をぱくぱくし、大きな訴えるような目をこちらに向けていた。
ぼくはその目が怖かったのだと思う。
そこにいた人たちにお礼をいってそそくさと外にでた。 暗がりに巨大な魚を見ていた目が、日差しの明るさにくらみ、すぐ前を走るトラックの音に立ちつくす。
その瞬間、いま見てきたことがみんなさらわれていくような気がした。
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