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「ミリオンダラー・ベイビー」

 大好きな作家がいて、その人やそのグループが作った作品と共に過ごす時間にはどこか特別なものがある。たとえばクリント・イーストウッド。俳優としてではなく、監督として意識的にみたのは、もうかれこれ二十年も前のこと、映画館ではなく、普段は演劇をやる劇場であった。
「センチメンダル・アドベンチャー」というちょっとした、でもとてつもなく面白いロードムービーが、ほとんど宣伝をされることもなく、ひっそりと打ち切られた。そのことに腹をたてた、当時あった映画季刊誌「リュミエール」の人たちが中心になって、一度だけ紀伊国屋ホールとフィルムを借りて、上映したのであった。
 何の因果か、おそらくたまたまそこにぼくは居合わせた。そして「センチメンタル・アドベンチャー」とクリント・イーストウッドと出会う。そしてそれ以降、ほぼ毎年のようにやってくるイーストウッドの映画は、ぼくの大好きな時間になった。

 イーストウッドの映画は、たとえていうなら湖面に浮かぶボートのようなもの。ゆるやかに、しかし絶えず揺れ続ける波に身をゆだね、二時間ほどゆらゆらして、やがて岸へ着く。ボートから降りるとすこし船酔いをしたのか、胸がいくらか圧迫されたようなへんな気持ちになる。
 ボートで読むようにと手渡された本は、時に西部劇だったり、恋愛物、サスペンス、ジャズに関するもの、探偵物、時には宇宙の話だったりと乗るたびに実にさまざまで、でも読後感はそのストーリーや内容、出来とは関係なく、いつも同じ船酔いに似た名付けようのない「ある気持ち」に支配されてしまう。

 またこうも思ったりする。映画は温泉。自分にあった温度や泉質があって、ああいつまでも浸かっていたいと思わせてくれるようなお風呂。
 映画館に行くのはお風呂屋さんに行くのと同じだなと思う。そこでかかる番組が大好きな作家であるなら、それはなじみの温泉だ。浴槽の形状は違っても泉質や温度は相変わらずのいい湯加減だ。
 ぼくにとってはハリウッドの超大作は少しお湯が熱すぎるのかもしれない。ぬるすぎて風邪をひきそうなのもちと困る。いまの自分にあったいい湯加減かどうかが最も大事なのではないかと思う。

 さて今回は「ミリオンダラー・ベイビー」。いっぱい賞をとったせいで、ここ何年かで一番いい劇場で観ることができた。どでかいスクリーンに最高級の音響設備でフルボリューム。場末が似合うB級監督にはちょっと不釣合いのような気がしたけれど、これもまたよしだなと思う。

 傾きかけたオンボロのボクシングジム。そこで雑用をする元ボクサーの老人がいう台詞にこんなのがあった。
「人は毎日死んでいく。皿洗いや床掃除をしてその最期をむかえるんだ。」
 たとえばそんなことを思う。世界にはいろいろな人がいて、いろいろな暮らしがあって、夢や事故、欲望や不条理、いろいろなささやかなものとか、傲岸さとか、とにかくあらゆるものがごっちゃに存在している。
 イーストウッドの映画にはそんなフラグメント(断片)がちりばめられている。細かなフラグメントが湖面の反射となったり、湯の花になったりして、軽い船酔い、湯あたりを引き起こすのだと思う。
 映画=世界はそんなよそよそしいものでも、もったいぶったものでもないのだとそっとささやいてくれる。今回もまたいい湯加減だった。

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