「苦い銭」
ぼくたちが普段口にすることばのなかで、お金やお金にまつわることがどれほどあるだろう。ひょっとして、そのことばかり話しているのではないかと思うことさえある。
お金を欲しがり、お金を心配し、お金をどうにかしてため込もうとする。別段そのことをいやしいともさもしいとも感じてはいない。ただそういうものなのだと漠然と気づき納得する。
そんなお金ばかりに腐心するひとたちの映画があればいいのにと思う。ロベール・ブレッソンに「ダルジャン」という、そのものすばりの映画があったことを思い出す。編集が面白かった印象は残っているが、はたしてお金がどうであったかは、あまりさだかではない。お金は、恋や郷愁や耽溺とともに人生の主要なテーマであり、映画の大切な題材にちがいない。
王兵監督の「苦い銭」を観る。ずっと観たいと思っていながら、最終日の最終回にやっと滑り込んだ。
貧しい農村部から遠く電車に揺られ、都市に出稼ぎにやってきたひとたちの日々を写したドキュメンタリーである。そう書いて、はたしてドキュメンタリーとはなんだろうと考えさせられる、そんな映画でもある。海外の映画祭で脚本賞をとったというのも、この映像の、見事なまでの綴れ織りを讃えてのことではないだろうか。
おそらく監督ひとりで撮影されたそのカメラのまえに、さまざまな出稼ぎ労働者たちが出入りする。そしてその全員が、お金のことばかりを口にし、お金のことを考えている。歩きながらお金の心配をし、お金のことで大喧嘩をする。いくら働いても貯まらないお金を嘆き、儲からない経営に頭を悩ませる。
労働とはお金そのものであり、それ以上でも以下でもない。それはもう貨幣でも資本でも、いやもうお金ということばですらよべない、「銭」という生々しい生き物の後ろ姿にも見えてきて、これが超経済大国中国の現在であるということが、ある意味で衝撃的ですらある。
奇しくもウーバーが走らせる自動運転の車が死亡事故を起こしたというニュースと、深夜に1200着もの服を詰め込んだ袋をいくつも、粗末な荷車のような車にのせている彼らの裸の上半身の汗の光が、同時代の同時刻で起こっていることとして、東京という街にのほほんと暮らすぼくのはらにすっとはいってきた。
映画館をでて、大手広告代理店の局長昇進を祝うパーティの会場にむかった。さほど遠くないそのお店に向かう足取りがどうしようもなく重かったのは、いまみた映画とは無関係だったと信じたい。
骨董通りをはいる。地下へと通じる階段のうえは、パーティの参加者たちであふれていた。なかには知っているかたの顔もあって、楽しげな会話や雰囲気は歩道にまでひろがっていた。
受付を待つその末尾にぼくも並んだ。けれどそれはほんのいっときだけだった。あたかも忘れ物を思い出したように、ぼくは列からはずれ、そして来た道をもどった。ひとこと謝ろうと思って、誘ってくれたかたに電話をした。ながくコールを待ったが、相手はでなかった。そしてそれでよかった。足をまえに出す速度は速まった。
こういう、いわゆる業界の派手な集まりにでることはもうやめにしようと、自分のなかではっきりと区切りがついた。お金でも落ちていやしないかと足元に目をやりながら、渋谷駅のほうへと歩いた。
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