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遅延電車
地下鉄から乗り換えて、目黒駅のホームへ向かう階段をのぼる。ラッシュをとうに過ぎたはずのこの時間に、人がたくさん立っている。
またかと思う。このところ山手線がダイヤ通りに運行されないことが多い。たまたまなのか、新幹線に乗らなければならないときにかぎって、こうなのだ。先週も始発から点検のためという理由で山手線は運休していて、そのまま地下鉄で大手町までいき、夜明け前の暗いなか、ビルの谷間をぬって東京駅へと走った。
やっときた電車は、乗りきれないひとを残してすすむ。乗り継ぎ時間があるので、無理をしてはいりこんだ。
おおきく揺れた電車は、大崎駅をでたところで緊急停車した。どうやら非常ブザーが押されたらしい。新幹線の時間が気になってきた。山形はきょう雪予報で、ダウンを着込んできてしまい、満員電車の停まったままの車内の蒸し暑さに、じわじわとのぼせる。
気をまぎらわせようと、液晶のモニターのニュースをみあげる。不正と偽造で責任者が謝っている。親族による殺人。どうやら浅草線も止まっているらしい。
もはや時間通りに目的地になんていうのは、あまり望んではいけないのかもしれない。きょうもそれを見越してはやめに家をでたからまだ余裕があるが、あと10分このままだと山形への新幹線に乗り遅れるなと思った。
企業の不正や偽造にも、親族同士の殺人や暴行にも、慣れてしまったのか、あまりあわてることがなくなった。慣性の法則ということばが浮かぶ。理科音痴だったぼくは感性の法則だと思っていた。
外は小雨が降っている。湿度の高い車内で、食後に食べる小さなカップラーメンのことを小声で話している40代の背広のひと以外は、みなじっと黙っている。以前はたしか親族殺人はいちだん重い量刑だったように記憶しているのだが、果たしてどうなのだろう。
いまは殺人事件の半数を占めるらしい親族間での殺し合い。柳町光男監督の「火祭り」がたしかそんな映画だったと記憶していて、先日の過疎村での大量殺戮などをきくと、北大路欣也のかっとひらいた目が、自然と頭によぎる。
快活な女性車掌のアナウンスがひびく。運行の安全が確認されたので、発車するようだ。東京駅まで13分。なんとか間に合いそうだ。どうか無事に着くまで、もうブザーを鳴らさないでほしいと願う。
電車は動き出す。こうしてひとはゆっくりと慣れていくのだろう。ただ、慣性が感性を減衰させていき、「慣れ」によって静かな狂気の芽が運びこまれるとしたらと、ふと怖くなる。知らず知らずのうちに全身にまわり、あるとき唐突に発狂する。
小さな過疎の村で大量殺人が起きた夜、山の樹木たちが大きく揺れていたのだろうか。月は明るく照っていたのだろうか。「慣れ」の浸透によって発狂した鬼の蛮行に、ぼくらが慣れつつあるのなら、「火祭り」はこれからも突然、理由もなく、あちらこちらで断続的に起こるのかもしれない。混んだ湿気の多い電車で、そんなことを考えた。