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少子化

 結婚した当初、ほんのちょっとだが、こどもを作るかどうかと話しあったことがある。バブル経済があやしくなってきたとはいえ、まだまだ上り調子の気運が漂っていたころであった。しかしこれから先はずいぶんとひどい時代になるという予感は、多くのひとの潜在下にあったような気がする。
 日本の経済は間違いなく停滞するだろうし、超がつく高齢化社会もやってくる。世界秩序は不安定だし、環境破壊に起因する地球そのものの寿命もどうなるやらで、90年代初頭、忙しさに紛れながらも、どこか未来に対する根本的な疑念が拭えずにいた。
 昭和30年代という、戦争もなく、さほどひもじい思いもせず、高度経済成長とともに大きくなってきた自分たちはどこか幸せの空気のなかにいた。そんなぼくたちですら、これからやってくる過酷な未来のことを悲観的に考えていた。それを承知のうえで、ではこどもは作るべきなのだろうかと思った。
 妻との話し合いはそう深刻なものにはならなかった。それは彼女の性格もあるし、なにごとも切羽詰まって考えないふたりの性分も関係していたと思う。なるようになれで、ふたりのこどもができ、楽しい時間を過ごした。

 先日、婚姻届けを出したばかりの長男夫婦が遊びにきた。ずいぶんまえから同居していたし、二匹の可愛い犬たちのことも知っている。
 とはいえ、晴れて結婚したわけだから、ついこどもはどうするなどとたずねてみた。たずねながら、自分が過去にいっときだけ逡巡した気持ちを思い出していた。
こどもはいらないという。
ぼくらも、そうかと納得する。

 こどもは人としてのかたちになるまえは、未来への担保であり、希望の換喩にほかならない。2022年のこの状況にあって、2050年、2080年、2100年を想像する。自分の身の回りをぐるっとみて、こどもを育てるだけのお金や環境がじゅうぶんにあるだろうかと自問する若者たちは多いと思う。格差がひろがり、その底辺にいたら、こどもはあまり現実的ではないにちがいない。  
 世界情勢は、この国の行く先は、どうなっていくだろうか。来るべき未来が不透明であること、こどもが幸せに育っていく未来がぼんやりとも見えないことは、政治の責任であり、それを選択し容認してきた大人であるぼくたちの罪科である。
 若いカップルだけに任せるのではなく、こどもを作るかどうかを、年代に関わらず、ひとりひとりが自分の問題として考えることは、政治の道すじを正していくうえで、とても大切な行いだと思う。

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