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断片〜発話のための訓練 1

「ひと言で、端的に答えてください!」
 国会で、とある議員が質問している。彼はやや苛立っているように見える。それに対し答弁をする議員は、延々と自説を述べるばかりだ。それも繰り返し、何度も聞かされた「丁寧な説明」。しかもいくら聞いてもよくわからないあの説明だ。なぜよくわからないのか。それは、前提として話されている論理やことばの定義が不明確であるか、あるいはその根拠を著しく欠いているからにほかならない。
 多くの、いやほとんどすべての憲法学者が「違う」と言っていることをまったく無視して、「砂川判決」や「47年見解」などを論拠としていて、もはや議論の根本がズレてしまっている。議論が成り立たないほどに、互いの認識や意味が噛み合わなくなっている。
 尋ねる、しかし答えはかえってこない。また尋ねる、しかし同じことばと説明の繰り返し。審議が止まって、時間切れ。こんなことが衆議院で100時間以上にわたって行われ、強行採決されて、参議院でまた平行線を演じている。もはやこれは茶番ですらない。ことばも論理も心もない壊れたロボットたちの右往左往。そこにあるのは薄汚い「思惑」と「都合」ばかりだ。
 
 ことばがどんどん空虚になっていく。目の前が霞んで、視界がぼんやりし、ことばはその向こうがわに遠ざかっていく。霧のなかで見失ったことばたちを探していると、朦朧としたぼくの耳に、切り裂くような音が突き刺さる。
 「戦争」「殺す」「殺される」「徴兵制」「撃滅」「兵站」「先制攻撃」「防衛」。気がつけばそこには、いままであまり馴染みのなかった一群の「戦(いくさ)」に関連することばが溢れかえっている。それらを使うこともなんとも思わないほどに神経が麻痺している。そして、ことばへの配慮も想像力も欠いた空虚な音の羅列ばかりが素通りしていくだけだ。
 これはどうみても異常だ。すでにぼくの身の周りは「戦(いくさ)」のことばが充満している。息苦しくはないのか。死や殺人や戦場の想像に押しつぶされたりはしないのか。
 
 言論の府にあって、すでにことばがことばとしてその機能を停止し、無効化している。そのこと自体がまさにこの国の「存立危機事態」なのではないかと思う。
 まず結論ありきの議論、スケジュールをこなすだけの時間の浪費、役割を演じてみせるだけの議員たち、おためごかしの民主主義。そんなものはいままでもいくどとなく見てきた。しかし以前はまだそこには真剣な議論があり、論理の応酬と攻防があったように、うっすらとであるが覚えている。いまの国会ほどにことばはすさんではいなかった。俎上にあがっているのは、徹底的にそのプロセスとルールを無視した、おそらく審議するに値しないひと束の法律なのだ。「憲法違反」の烙印を押された、出自そのものが怪しい代物を、超法規的措置同然の蛮行でごり押したがゆえに、ことばは徹底的に噛み合うことがないし、理解し合うこともないのだ。
 
 空疎で無意味な論戦の向こうに透けて見えるのは、アメリカ合衆国とこの国の経済界と官僚の性急な欲望である。このことはもはや多くのひとにまる見えになってしまっている。なんといっても役者が下手すぎて、芝居や舞台のあちこちにほころびや破れ目がありすぎるのだ。
 さてどうしよう。「戦争」はグローバリゼーションの副産物=おまけとしてどうしてもついてくるのだと、そう自分を納得させるのがいいのか。国中をコンクリートで覆い、橋も高速道路も新幹線も作る場所がなくなったいま、経済成長のために「戦争」という名のあらたな「公共事業」に参画することをよしとするか。理想だの良心だのじゃお腹はふくれないからと、こどもたちにそうやって説明するべきなのか。
 
 ことばが麻痺している、こんななかで、ことばを発していくのはとてもつらい。ことばは喉元まででかかるけれど、すぐにひっこんでしまう。
 思考が麻痺している。断片ばかりが浮かんでは消えていく。まとまらないのだ。ひとつひとつのかたまりをつないでいくことばが足りない。概念を形づくることばが眠っているからだ。
 身体が麻痺している。動こうとしても足が前にでない。手が上にあがらない。身体を動かしていくはずのことばと思考が死にかかっているからだ。
 
 もうだめだと思う。これ以上は無理だと思う。しかしあきらめてしまったら、おそらくぼくは「ほんとうに大切なもの」を失うのだと、それだけは直観でわかっている。
 小さな希望がある。賭けてみようと思う。最後にして最初かもしれない、瀕死のことばたちの、悲鳴にも似た叫び声が、向こうのほうから聞こえてくるのだ。

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