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「パプーシャの黒い瞳」
イメージフォーラムやユーロスペースや岩波ホールのおかげで、このところポーランド映画に接することができて、ほんとうにありがたいと思っています。昨日は「イーダ」「幸せのありか」に続くポーランド映画「パプーシャの黒い瞳」を観てきました。
ぼく自身、ジプシーのこと、その歴史については何も知らないに等しいです。かろうじて自分の興味に近いところでは、ジャンゴ・ラインハルトやビレリ・ラグレーンの音楽が、ジプシーを想起させるものです。映画では少し前に、ロマのひとたちを描いた大好きな作品「鉄くず拾いの物語」を観ましたが、それくらいかと思います。
「パプーシャの黒い瞳」は、ほんとうにいい映画でした。すべてがよかった。なかでもこれをショットというのでしょうか、カメラの仕事が素晴らしかったです。
ぼくのなかの勝手な解釈では、ショットというのは、フレーミングと密接に関わっています。なにを映して、なにを映さないか、なにを見せて、なにを見せないか、そのライン=境界線に関わる問題ではなかろうかと感じています。それはやや大仰にいえば、撮るひとの考えや人間性、そして善悪の彼岸そのものではなかろうかと思うのです。
前日に目黒シネマで観た「グランド・ブタペスト・ホテル」は、そのフレーミングされた舞台で「なにを起こすか」ということに腐心する映画のように思いました。それはそれで、楽しいし、素晴らしいのですが、自分の趣味とはあまり合いませんでした。
それよりもこの「パプーシャの黒い瞳」で、厳粛に行われた撮影姿勢、つまりフレーミングされたなかで「なにが起きるのか」を、じっと辛抱強く待つ撮影姿勢のほうが好きでした。「起こす」のか「起きる」のか。他動詞と自動詞みたいなことですが、これがぼくにとっては、非常に大切な「好き」の試金石になっています。
たいがいは「起きる」のを待つことはないし、ひどいものだとそんな撮影の根幹に関わることすら考えていなかったりします。よしんば待ったとしてもそれはそうそう簡単には「起きない」のです。
たとえば最近観た「アメリカン・スナイパー」では、それは待ちながらも、少なくともぼくのなかでは、「起きなかった」映画でした。はたしてゴドーは来るのか、それはだれもわからないのです。
でもぼくたちはゴドーがやってくるのを期待してお金を払い、観客席に座るのです。そして幸運なことに「パプーシャの黒い瞳」では、フレームのなかで、なにかが、それがなにかはよくわからないのですが、なにかが「起きた」ようです。投射されたスクリーンの隅々から、かたときも目が離せないのは、その証左だと思います。
こういう「待つ」表現は、いまの自分のまわりに見られる映像表現とは、ある意味で一番遠いところにあるのではないかと、やや暗澹たる気持ちにもなります。
つまりぼくたちは、なにかを、あるいはなにかおもしろいことを、恣意性のうちに「起こそう」とする姿勢に慣れ親しんでしまって、さらに神経の麻痺まで起こしているのではないかということです。それをうまく、才能豊かにやることができれば「グランド・ブタペスト・ホテル」のようなおもしろい作品に昇華されるのでしょうが、それはごく稀なことでしょう。
分別もなく、思慮もない、偏狭で尊大な恣意性こそが、神々をたそがれへと誘う、甘美なまがいごとにほかならないのではないかと、「パプーシャの黒い瞳」を見終わって、そんな反省にしばし浸ったのでした。