「アワーミュージック」
薄暗がりの一室、ジャン・リュック・ゴダールのアップ。オフで若い学生の声がかかる。
「ムッシュー・ゴダール、デジタルカメラで映画は救済できますか?」
その問いかけにゴダールは答えない。暗がりにまぎれてよくうかがえないその表情には、困惑、躊躇、諦観、そのほかいろいろなものが見て取れるような気がする。
それら表出された感情の束は、その質問の内容から引き起こされたものではなく、むしろ発せられた若々しく屈託のない声=音と、それが指し示す深刻な事態との圧倒的な乖離によってもたらされたに違いない。
一体その屈託のなさはどこに由来するのだろう。若さ、豊かさ、無知、幼稚。
この問いがあたかも広告のコピーのように流通し消費されてしまう場所でなら、これもまた粋なのだろうと笑ってすませるのかもしれない。しかしこの問いが発せられた舞台は、痛ましい歴史の残滓がここそこに見る事ができるサラエボという街である。
こんな話を聞いたことがある。かつて野菜ジュースのコマーシャルで、日本人女性ギタリストの生演奏を写そうとフランスまで撮影隊はでかけた。難しくかつ繊細な楽曲に取り組む姿をフィルムに焼きつけんと四苦八苦するものの、なかなか演奏者である彼女自身が納得するテイクが得られず、何度もやり直す。
そんななか、だれもがうまく流れていく予感を感じたその時、上空を紛争地コソボへむかう戦闘機の爆音に演奏はさえぎられてしまう。
「アワーミュージック」。もう一度はじめから。それはいかなる轟音のなかからも、もし耳をすます感性をもつなら、必ずやとどく音のつらなり。
冒頭延々と続く戦いの映像のモンタージュ、映画史の挿入、死体の山、そしてナレーション。
「生存者がいるのが不思議なくらいだ。」
耳をかたむけてみる。その悲惨な歴史の向こう側からどんな音のつらなりが聴こえてくるのだろう。
「ムッシュー・ゴダール、デジタルカメラで映画は救済できますか?」
ゴダールのアップ。
若い人よ、願わくばもう少しの逡巡と躊躇を、もう少しの探究心と向上心を。若々しく、屈託のないその笑顔だけでは「映画」は「救済」できたりしない。目を閉じて耳をすまし、寂寞とした音のかべのむこうから詩的なメロディの断片が流れてくるのをじっと待つ労力を惜しむなかれ。
そして世界はもっと複雑で単純だと、老ゴダールはそう語っているように感じた。