川崎の散歩
(1)
きょうは散歩の日と決めこんで、朝から張り切って出かけた。やはり歩かないことには衰えていくばかり。ときには重い腰をあげないといけない。ひと通り家事をすませて、十時きっかりに家を出る。目黒線で武蔵小杉にいき、南武線に乗り換えて川崎駅に降りたった。
どうもここに来るたびに違和感と疎外感ばかりが募っていく。こどものころに知っているあの風景とはまったく変わって、まるで荒れ野のように寒々しい。いや、さびれてなんかいない。むしろ昔よりずっと賑やかでひともとてつもなく多い。大規模再開発が進み、駅周辺は綺麗に整備された。とくに西口はかつての殺風景な面影など、まったくといっていいほどない。
でもぼくにとって、ここ川崎の駅前はどこまでもひろがる荒野のようにしか映らない。すれちがうひとたちもどこかひととしての体温を感じることができない。それはぼく自身の気の持ちようが原因だということは重々承知している。
川崎といえば庶民の街じゃないかというかもしれないけれど、いったい庶民ってなんだとさえ思う。そのことがわからなくなっている。そうなってしまったひとつのきっかけを追うのが、きょうの川崎散歩の、あらかじめ決めていたルートにほかならない。
JR川崎駅の改札をでて、右におりていく。ターミナルをまえに左へ左へと進んで行く。すると京急の川崎駅にあたる。電車には乗らず、もっと左へといってみよう。そう、多摩川のほうを目指すのだ。
京急の線路に平行に続いている通りをいくと、大資本は急にそっぽを向く。チェーン店がなくなっていく。小売店や小さな会社が連なって、旧東海道川崎宿のノボリもみえてくる。さらに奥にいけば性風俗の店やラブホテルが立ち並ぶ堀之内町があらわれる。風営法のせいか、呼び込みもお店のとば口からなかばやる気のない声をかけてくる。なにせまだお昼まえなのだ。
堀之内を抜け、国道を渡ると右手には大きな川崎競馬場がぬうっとそびえる。高校生だったころ、川崎に用事があって、父親の車に同乗した。父はそそくさと用をすませると、ここ川崎競馬場にやってきた。対岸に車を止め、ぼくを残して、するすると交通量のはげしい道をわたって向こう側へ消えていった。
しばらくして父は照れを隠すように笑ってもどってきた。まさかその数年後におそろしい借金を残して出奔するとは思いもよらなかった。
ぼくはニトリがはいった大型商業施設に隣接したこの競馬場を懐かしくながめた。平日にもかかわらずレースをしているのか、ひとの出入りがある。一瞬なかにはいってみようかとも思ったが、やはりそんな気にはならなかった。あのあとおふくろがどれだけ苦労したか、それを思うと気分が悪くなるばかりだった。
(2)
競馬場をすぎて、大きな通りをさらにあがっていく。きょうの目的のひとつである、大きなブックオフがみえてきた。
ヤマダ電機と分け合ったビルの二階には、蕩尽の名残のような中古の衣服や宝飾品、生活雑貨やゲーム、本、そのほかありとあらゆるモノというモノたち、持ち主から捨てられ売られていったモノたちであふれかえっている。ぼくはそれらを見に、ときどきここまで車でやってくる。そして実際に、いくつかのモノを買ったりもする。
乱雑に並んだたくさんのモノたちに、ほとんど魅力を感じることはない。でもごくわずか、あっと思うモノに出会う。それが楽しいのかもしれない。
あれは三ヶ月くらいまえだろうか。試着室のまえに、少しばかり値の張るモノだけをいれた小さなガラスケースがある。店員さんを呼んで、鍵を開けてもらわないことには手に取ることができない。そのなかに前から欲しいと思っていた財布で、自分の好みに合うモノを見つけた。GANZOの財布だ。ぼくなんぞには新品は手がでない。だからあの黒い光沢の中古品をガラスケースのなかに見つけたときは色めき立った。しかしそのときはずいぶん使い古したわりに、値が高すぎて躊躇した。正直、高すぎると思った。でも欲しかった。ずいぶん悩んだけれど、買わずに帰ってきた。
今回の散歩では、あのGANZOの財布は、まだガラスケースにあるか確かめるのも、目的のひとつにあった。もしきょうそこに見つけたら、買おうと決めていたのだ。
ドキドキしながら二階へと上がる。目当てのガラスケースはすぐそこだった。ぼくは目を凝らして、かつてあった場所を探した。やっぱりなかった。あれだけのモノだから、三ヶ月も経てば売れてしまったにちがいないと納得した。そのまま目を下段の比較的安い棚に移して、かわりによさそうな財布はないかと物色する。すると奥のほうに、なにやら見覚えのある黒革の財布が埋もれているではないか。ぼくはあわてて店員さんを呼んだ。見間違えではないかと手を伸ばすと、果たして求めていたGANZOだった。値札をみると、ずいぶんと安くなっている。なんだかこうして待ってくれていたように思えて、この使い古された財布が愛おしく、手のなかでいやというほど撫でまわした。
隣にいる店員さんにことの成り行きを手短かに告げた。そんなことをする必要などなかったのかもしれない。けれどそうしたかったのだ。すると彼女は心からうれしそうに笑って、こういった。
「それはほんとうによかったです。」
会計をすませておもてにでると、おなかがすいてきた。いつのまにかお昼がちかくなっていた。
(3)
思いのほかのポカポカに、お昼は多摩川の河原で食べようと決めた。ブックオフの大きな建物の先に、これまた大きなイトーヨーカドーがある。そこでお弁当とお茶を買って河川敷に向かうことにした。
車通りの入り口とは反対の扉からでる。鈴木町駅とともに、味の素の工場や施設が目に飛び込んできた。味の素の向こう側にある多摩川にたどり着くには、一体どうしたものかと途方にくれる。
ビニール袋を下げて信号待ちをしていると、ちょうど隣にひとがきたので、たずねてみた。
「あの、すみません。河原に行きたいのですが、どういったらいいでしょうか。」
そのひとは怪訝そうな顔をした。
「河原、ですか?」
「ええ、河原です。」
少し思案して、
「ええと、そうですね。あそこの英語がはいった大きな建物は見えますか?」
指差したほうをみると、それはずいぶん先のほうにあった。
「わかります。」
「あの建物の手前に信号がありますから、それを右にいくと川のほうにいけます。」
「そうですか、ちょっと離れているんですね。ありがとうございます。」
礼を言って歩き出す。せっかく温めたお弁当も冷めてしまうな、などと考える。道を教えてくれたひとは「味の素食品研究所」と書かれたビルにはいっていった。
かなり広い範囲で川に沿った敷地を味の素が使っているということがよくわかった。鈴木町駅を乗り降りするひとの大半が味の素に勤めるひとたちにちがいない。
すこしいくとフットサルをやっている若い人たちの声がした。そのコートの向こうにはさっきまでいたブックオフの建物の背中がみえて、ぐるっと一周してもどってきたことを知る。目当ての信号機も近づいてきた。
右にまがろうとして、いっとき躊躇した。そこは道というより、すぐさきのセメント工場の敷地のように思えたからだ。勝手にはいっていくのをためらうほどに、この道が河原を予感させるのどかさはない。
すぐ横をダンプカーが大きな音をたてて追いこしていった。それに押されるようにして歩をすすめる。
たくさんのトラックやダンプが整然とならんで止まっている。さきのダンプはそのままセメント工場のなかへと吸い込まれていった。
クレーンや大型重機の奥に、大きな水門が現れた。四角いてっぺんには飾りみたいな石の彫刻がふたつ、どんと乗っていて、どことなく要塞のようにも見えた。
(4)
巨大な水門のすぐむこうに、多摩川は流れていた。小さく低い土手から、広く見渡す。上流とはちがって水の量もおおく、向こう岸までも遠い。
水門のしたに、河川敷とよぶにはかなり狭い土地がぽっかりと浮かんでいた。枯れた草が茶色に粗末に横たわって、水際近くには鳥たちが集団で休んでいる。
ゆるい砂利のスロープを降りていく。ちょうどお弁当を食べ終わった工員のひとが立ち上がったところだった。入れ替わるように、彼がすわっていた場所に腰かけて、包みをひろげた。
お弁当はおいしかった。たくさん陽があたって、気持ちがいい。ほんとうに小さな河川敷。それは箱庭のような、なんともいえない不思議な場所だ。先客のおじさんがひとり、鳥たちがいる水際のあたりでなにかをしている。まるでこの洲のような河川敷の番人のようだ。
ぼくの目のまえには看板がある。それによると、この土地は味の素が管理していて、勝手にバラックなどを建ててはいけないそうだ。バラック禁止か。ここは住んでみたら案外いい場所なのかもしれない。川べりの庭付きの一軒家みたいな風情になるのではないかと想像した。
水門のちかくにも看板が二枚たっていた。それらは2016年と2017年に立てられたものだった。古いほうには、献花台が撤去されたことが記されていた。そしてそれ以降も献花やお供え物は、逐一撤去していくとの取り決めになったとある。
あたらしい看板にも、同じ内容が反復されていた。ここで二度火事があって、防犯上も問題があり、だからこそ献花や品物は撤去するということ、そして遺族もそれをのぞんでいるのだとも書かれていた。
ここを訪れてなにかを手向けることは、できればやめてもらいたいという意思が慇懃で杓子定規な文体から、あからさまに伝わってくる。
あの事件から、もうすぐ三年が経とうとしている。夜ともなれば気温もぐっと下がり、あたりは漆黒の闇となるにちがいない。よほど近づかなければ、だれがだれであるか、それがいったいなんであるかも認識できないだろう。
寂寞としたやるせなさは、川崎駅に着いたときからポケットの奥にはいっていた。そして歩くたびにモフモフと鈍い音をたてた。やるせなさを入れる財布は、ついさっき買ったばかりだ。
おなかもふくらんだし、ここからがもうひとつのスタート。あの日の夜、よっつの影が歩いたであろう道を、ときに反対から、ときに十字に重なるようにたどってみようと思う。
(5)
ふたたび小さな土手にあがって、もういちど河川敷を振り返る。ちょうどおじさんが足元の石を拾い上げ、川にむかって投げつけるところだった。水際にいた鳥たちがバッと羽ばたく。もう一石、おじさんは力いっぱい投げた。
やはりここは不思議な場所だ。ふわふわと浮かんでいるように見える。すぐそこにそびえる巨大で堅牢な水門でさえも、なんだか大掛かりなセットのようですらある。
あのブックオフの建物も、川崎駅のほうから車で走ってくると、ポッカリとあらわれるのだ。あたかも奇妙な楼閣に引き寄せられるようにしてはいったのが最初だった。地方でもときに見られる、広大な田畑のなかに突如としてあらわれる大型ショッピングモールのあの不思議さを、このブックオフのビルと隣のイトーヨーカドーに感じていたのだと思う。
そのときぼくには、浮かんでいるように見えたのだ。興味がわいて、なかにはいると、だだっ広いフロアに、たくさんの使い古されたモノたちであふれかえっている。それは川崎の、とくに臨海地域、工場地帯に抱くイメージに、うっすらと重なった。
幼かった頃、工場とは不思議な場所だった。その巨大な建物のなかでいったいなにが行われ、作られ、運ばれていくのか。工場とは秘密にあふれた基地であり、想像力の増幅装置にほかならなかった。
多摩川沿いの町に育ったせいもあって、川崎の工場地帯とは、そんな秘密の基地がたくさんある、どこか怖くて魅力のある場所だったのである。
ブックオフ、イトーヨーカドー、味の素工場、そしてその狭間にぽっかりとある、猫の額ほどの河川敷。浮かんでいるがゆえに、それらの景色は二重にブレて、しっかりとした像を結べない。
そろそろここをでて、固く、がっしりとした地面を歩いていこう。ぼくは、影をひとつ残したまま、河川敷をあとにした。
車通りにでて、イトーヨーカドーまでもどった。すぐまえの「鈴木町駅入口」の信号を渡って、住宅地にわけいっていく。どこにでもある戸建の家並みを歩きながら、その景色の確かさにほっと息をつく。しかしそれはあまり長くはつづかなかった。
思っていたよりもずっとはやく、その公園はあらわれた。それは角地にあって、四方の見通しもよく、陽がさんさんとあたる、ごく普通の公園だ。遊具もあり、おにごっこやボール遊びもできそうなくらいの広さで、もう少しすればこどもたちやおかあさんたちで賑わうだろう。
そう思わせる、明るい公園の一角の、石でできた椅子にこしかける。向こう側の陽のあたるベンチには、休憩する作業員たちや老父婦の姿がみえる。
ぐるっとみまわして、おもしろいなと思ったのが、公衆トイレの位置である。公園のほぼ中央にあるのだ。ふだんあまり注意して観察しないのだが、トイレはもっとすみのほうにあるものだとばかり思っていた。こういうものなのだろうか。
ぼくがいるところからはトイレの背後がみえるし、どのベンチからもトイレが視界にはいってくる、そんな作りなのである。
公衆トイレの正面が見たくなって立ち上がったときに、何か柔らかいものを踏んだ。ぐにゃっとした感触に驚いてさがると、はたして冬用の厚い手袋だった。拾い上げて椅子の上にでも乗せておくのが親切というものだろうが、そうしなかった。少し緊張していたのだと思う。
そのまま地面で軽く指を曲げるようにした黒い手を置いて、公衆トイレに向かった。
(6)
あの夜、この公園で火事があった。女子トイレの個室で、服や靴が燃やされたのだ。公園のまわりはぐるっと家々が取り巻いている。さぞかし大きな騒ぎとなったであろうと想像する。
小さな河川敷にあったよっつの影は、イトーヨーカドーの前の横断歩道をわたったときにはみっつになっていた。影たちは通りからさほど離れていないこの公園に立ち寄り、河原に無残に放置してきた、まだ幼さが残る友だちの衣服を、オイルをかけて燃やした。
あらためて公衆トイレのまえに立って思う。なんでここだったのだろう。夜中とはいえあまりに開けっぴろげな角地の公園で、しかもトイレはそのほぼ真ん中にある。放火という行為を、隠すものも隔てるものもない。
実際に火をつけた少年が、ちゃんと燃えたかを確かめにもどってきたという。いまぼくが立っているあたりだろうか。河川敷では影としか認識できなかったその顔を火に照らされ、赤くあらわしたにちがいない。その数百メートルさきで起こったことを、だれかに知らせたいと思ったのかもしれない。そう感じてしまうほどに、ここは隠すという意思を感じさせない場所なのである。それともただ単にマンションに向かう通り道だったと、そんな理由に過ぎないのかもしれない。
素人の憶測などは無用だし、不遜だ。でもぼくはなにかを「思おう」として、きょうこの散歩を思い立った。三年まえの事件で感じたやるせなさは、日が経っても、年を越してもおさまらず、むしろゆっくりと成長していった。
なにかもっともらしいことや、自分にとっての都合いい理由付けなどは、これっぽちも必要としていない。ただ胸を圧するものが、いよいよ重苦しくなってきたとき、ぼくは起こった場所に行って、なにかを「思おう」と自分を仕向ける。
納得したいわけではない。ただその場所だけが持つ風景とか気配、色や音があって、それらを感じながら「思う」ことが、寄る辺のない、つたない考えを助けてくれる。そんなことがたびたびあるからだ。
まこと皮肉なことに、衣服を燃やされた少年の父親の育った家が、この公園のすぐまえ、ぐるっと囲んだ家々のどこかにある。それを知ったとき、被害者遺族への思いは昂らざるを得なかった。父親にとって庭のような、最も馴染みも思い出もある公園でと思うと、足が細かく震えた。
(7)
たとえば死刑制度をめぐるさまざまな意見の交換のなかで、犯罪被害にあったひとやその家族の気持ちを考えろという詰問調のつよい表現がよくでてくる。
「気持ちを考えろ」とはなかなかやっかいな言いようだ。そんな正義をふりかざしたクリシェをきくと、コミュニケーションのブラインドが降ろされたような気になって、途方に暮れてしまう。
よしんば「気持ちを考える」のであるなら、それを考える「わたし」はどこまでも無色透明で無機質でなければならないだろう。そこまで「わたし」を客観性のはたてまで追い込まないのなら、ほかのひと、なかんずく犯罪被害者のかたの「気持ちを考えること」など、やめたほうがいいとさえ思う。
「さぞかし」などは、あくまで「わたし」の憶測でしかない。のっぴきならない非常事態に遭遇したひとたちに、まったく無関係で、安全な場所にいる「わたしの考え」などは、それこそはた迷惑なだけであり、ひどい場合になると、それは犯罪被害者への侮蔑となる危険性をまねく。
マスコミやインターネットによる心ない報道や暴露という二次被害が、被害にあったひとたちを苦しめる事例はいくらでもある。
かつて育った家のすぐ目の前の公園で、自分の子供の服や靴が燃やされる。その数百メートル向こうの河川敷では、業務用の大きいカッターで数えきれないほどに切られ、寒空のなかを泳がされ、そして放置された息子がいる。そんな父親の「気持ち」を、一体どうやって考えればいいというのだろうか。
抽象的ないいいかたかもしれないが、「思おう」とすることではないかと思う。「わたし」が思うのではなく、「思い」のようなものが、向こう側からやってくるのをじっと待ってみる。「考える」のはそれからでいい。
近い将来、裁判員として殺人事件の公判で、なにがしかの判断をしなければならないとき、客観性の振り子を揺らすのは、そんな沸き起こる「思い」なのではないかと、漠然と思った。
いまではなにごともなかったかのように、静かにそこにある公衆トイレ。ぼくは小さく頭を下げ、陽がたくさんあたる公園をでた。
みっつの影は、闇のなか、そのまま国道に向かっただろう。通りにでて、対岸の業務スーパーのほうへ、信号など渡らず、そのまま突っ切ったかもしれない。
すこしばかり大師方面へいき、右へまがっていけば、彼らが朝まで無言のままゲームをして過ごしたマンションは、さほど遠くない。
ぼくは彼らを追ってその道を行かず、さらに通りに沿って歩いていった。132号線は産業道路へと続く大きな通りで、その広さが、どこか工業地帯川崎らしい景色でもある。
もうもうとした砂ぼこりと排気ガス。子供だった頃の高度経済成長期、川崎の空はいつも、うっすらとした黒い雲がかかって暗かった。この道路も、それこそたくさんのダンプやトラックが、我さきにと不機嫌なクラクションを鳴らして疾走していたにちがいない。
そんなことを思いながら歩道を歩く。みっつの影から離れたのにはわけがあった。どうしても通ってみたい路地があるのだ。
(8)
ぼくはある信号機のしたで立ち止まり、もういちど確認するように見上げた。その信号を右へはいって、すぐの路地をいけば、当時18歳だった主犯格のAくんの家がある。
その細い道を歩くかどうかほんとうに迷った。それはどこか「してはいけないこと」のようにも感じた。もちろん石を打つつもりなど毛頭ない。ただそこを通りすぎることで、加害について、加害者家族について、なにかを「思おう」としたかった。
ゆっくりと路地をいくと、はたして家はそのままに、すこし大きめの表札もしっかりとかかっていた。あのときスプレーで心ない落書きをされた低いコンクリートの壁もいまはきれいになっていた。
なんということのない小さな一軒家。車のはいっていない一階の駐車スペースには、日常の生活を感じさせる雑多なモノたちが無造作に置かれていた。モノというのは、ただそこにありながら、ときに雄弁に語る。そう思った。
この家に住んでいるひとたちの強い意思を感じた。それは、刑期を終えて、帰って来るこどもを引き受け、それとともに彼が犯してしまった罪もまた、一緒に家のなかに迎え入れるという意思にほかならない。
有期刑を受けた少年たちは、また社会に戻ってくる。そのときに、この先の長い時間も罪を背負って生きていかなくてはならないひとを、同じ社会の一員として、どう受け入れるのかという問いかけを、自分自身によくする。
だれかがしっかりと受けとめてあげないといけない。そういう出所後の体制が、社会の仕組みとしてしっかりできているかというと、はなはだ心もとないと言わざるをえない。そんななかで、家族の力と愛が、なによりも必要だし、大切だ。
想像がつかないほどの恐ろしい誹謗や中傷を浴びながら、いまでもそこに居をかまえるAくんのご家族のことを「思う」。被害者遺族、そして加害者家族、その日々の暮らしのありようを、一所懸命に「思おう」とする。
家やモノたちのたたずまいから、いろんなものを感じることができた。それはひとり悶々と考えるよりも、ずっと皮膚にささるものだった。
こうして家族がいてくれることで、更生への道すじはよりはっきりとしたものになると、そう思いたい。
ただ加害者家族の多くはこの川崎の地にとどまることができず、どこかへでていってしまった。その移転したさきが服役中の少年たちにちゃんと伝わっていればいいと願う。家族との連絡が途絶えていなければと祈る。
一番量刑の軽いCくんは、おそらくあと2年を待たずに社会に復帰する。あのとき住んでいたマンションにはもうだれもいないだろう。戻ってきた彼に行くあてはあるのだろうか。だれが迎えてくれるのか。そのことが気がかりでしかたない。
(9)
観音という名のついた住宅地を歩いていく。その名の通り、静かでやさしい空気がながれるいいところだ。
小さなお寺さんのまえにあるファミリーマートに立ち寄る。最近はコンビニのゴミ箱も店内にあって、通りがかりのひとが捨てられないようになっている。ここ、観音のファミマは、珍しく外にゴミ箱があった。
ぼくは河川敷で食べたお弁当の空箱とペットボトルを捨てた。観音の慈悲にすがってばかりもいられないと、なかにはいって、お茶と飴を買った。
川崎駅から多摩川の河川敷へいき、伊勢崎、川中島、そして観音と、こうして歩いてきた。距離はさほどではないけれど、なんだかとてつもなく疲れた。
観音を抜けると、通りに沿ってTSUTAYAを見つけることができる。ここは馴染みのある景色だ。ぼくは、1年半ほどまえから、この通りのすぐ向こう、桜本にある「ふれあい館」に朝鮮の打楽器を、不定期にだが習いにきている。
たいがい車を使って桜本にいく。武蔵小山から大森を通って、多摩川にかかる橋をわたる。まっすぐにのびた産業道路からそれる通りが、いまこの目の前の道路である。そして信号のすぐ脇にあるこのTSUTAYAこそ、桜本へと左折するときの目印なのだ。
そしてまた、このTSUTAYAは、今回の散歩のもうひとつの立ち寄り場所でもある。
あの夜、このTSUTAYAで上村くんとCくんは待ち合わせた。夜更けの、車通りもまばらになった通りをふたつの影は、川崎大師のほうへと歩いていった。そして神社で待ち伏せをしていたふたつの影と合わさる。よっつになった影は、そのまま多摩川の河川敷へと消えていった。
あの日の惨劇はここからはじまったのである。当初の予定では、このあと、上村くんとCくんのふたりを追って、若宮八幡宮へ行くつもりだったが、想像をはるかに越えるだけの「思い」が募って、もはや足が前へと進まなかった。
さてどうしたものかと、あたりを見回したとき、TSUTAYAを背に、通りのすぐ向こうにある自立支援学校をみて気持ちがかたまった。このまま信号を渡って桜本にいこうと決めた。
桜本にやってくると、なぜかほっとする。ときどき用もないのに車できては、ぐるっと一周、桜本を歩いてみる。どこにでもあるような商店街に、公園や住宅がある、ごくごく普通の町だ。在日韓国人、朝鮮人が多く、それだけでなくフィリピンをはじめいろいろな国籍のひとと行き交う。
二年ほどまえに、大きなヘイトデモがこの町を襲った。河原での殺人事件の犯人のうちふたりの母親がフィリピン人だったことや、Cくんのマンションが桜本にあったことが、いまわしいヘイトデモの、間接的な原因となったのかもしれないと感じたことが、今回の「川崎の散歩」の動機のひとつであったことは、まちがいない。
(10)
歩いているとなぜか、いろいろなことを思ったり、考えたりする。そして浮かんだことを筆の進むままに書き記しておく。すこしはまとめてみようと、書きながらまた考える。なにが見えたか、どんなにおいがしたか、だれと会ったか、なにに対してあれっと思ったか、そのひとつひとつを思い出しながら書く。
桜本の真ん中にあるライフを曲がって、商店街にはいる。去年の11月にこの道をパレードしたときのことがよみがえる。
桜本商店街が主催する「日本の祭り」に、プンムルノリの一員として参加した。プクという打楽器をさげ、叩きながら皆と一緒に行進する。おとなプンムルは50人くらいいただろうか。それにこどもたちのチームもあって長い楽隊の列がつながる。途中、商店街の小さなスペースで、それぞれのパートにわかれ、衆目を集めての踊りを披露するのだが、それにもまぜてもらって、拙いながらも、叩き、踊った。
いろいろな国のひとが集まる「日本の祭り」。もちろんお神輿も威勢よく練り歩く。そのあとを民族衣装に身を包んだ在日一世のハルモニたちでつくる「トラジの会」やプンムルノリが続く。まわりでは店先にせりだして飲んでいるひとたちが賑やかに楽しんでいる。いろんな文化や民族が共生して仲良く住んでいこうという、この町の独特なカラーをそのまま体現したような素敵なお祭りだった。
そのとき「日本の祭り」という言いかたを、おもしろく感じた。なんか新鮮だった。日本ということを特化するのではなく、たくさんのなかのひとつとして、客体化されているように思った。だって商店街にあふれているひとたちは実に多様だったからだ。
ぶつかってもいいし、喧嘩したっていい。そのあとにちがいや好き嫌いを認め合って、なんとか共に生きていければと思う。そんな青臭い、漠とした「思い」のかけらを、あの日の「日本の祭り」で感じた。
上村くんの事件は、さほど遠くないところ、ここ桜本に片足をかけるようにして、起こってしまった。「たられば」は、むなしいばかりだ。起こったことの取り返しのつかなさを、張り裂けんばかりの痛みと悲しみとともに、いつの日かわかりあえたらと、心から願う。
「そんな悠長な」と言われるかもしれないが、少なくとも憎悪と報復からは、なにも生まれてこない。
「川崎の散歩」は、桜本の「日本の祭り」を念頭に置いて書いた。歴史のなかで、加害者となり、被害者となってしまったものたちが、時間を経て、互いを理解しあい、許しあうことで、ともに歩き、踊る。
そんな加害と被害について「思うこと」がたくさんあった。まとまりはしなかったけど、大好きなチョンド先生にちょっとだけ、その思ったことをきいてほしくて「ふれあい館」に立ち寄った。
あいにくチョンド先生はおやすみでいなかった。だから書いてみた、あの日先生に話したかったことを。
(了)
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