歌ってよ
二十歳の時、ぼくははじめての海外旅行でネパールにいた。なにをするでもなしにやってきたかの地での時間も、すでに一ヶ月半がすぎていた。首都カトマンドゥの中心部、旧王宮があるあたり、夕暮れのバサンタプールの広場近くで、ひとりの女性と再会した。
彼女とはその前に、ポカラという湖の村で知り合い、お互いの友人もまじえて、四人でなんどか食事をしたことがあった。
十日ほどの空白ののち、ベネズエラからやってきた、年はぼくよりも一回りも上の美人と、こうしてふたたび会えるとは思ってもいなかった。
ぼくたちはこの偶然をよろこんだ。なぜならこんなにもたくさんの人々であふれかえった街で、数少ない友人と出会う確率はものすごく低いのだから。
そのまま夕飯を一種に食べ、いっぱい話をして、少しお酒ものんだ。食堂をでて、彼女はぼくが泊まっている粗末なゲストハウスの部屋にやってきた。
ベッドにならんで腰かけて、なんとなく黙っていると、彼女が顔を近づけてこういった。
「歌をうたってよ。」
「歌って英語の歌?」
「ううん、そうじゃなくて、あなたの国の歌をあなたの国のことばでうたってほしいのよ。」
ぼくは少し躊躇した。
「でも、意味がわからないじゃない。」
「いいのよ。日本語の音を聞いてみたいの。」
すこし考えて、童謡のようなメロディのフォークソングをうたった。ゆっくりしたテンポで、やさしい言葉でかかれたその歌を、ぼくは壁にむかってうたった。
ひさしぶりに聞く日本語のひびきは、とても新鮮だった。途中で彼女を盗み見ると、目を閉じて一生懸命聞いているようすだった。
うたい終わると
「もういちど、同じ歌を。」
そういいながら彼女はぼくの後ろにまわって、かぶさるように腕をまわしてきた。
うたいだしてしばらくすると、
「とてもすてきな響きのことばがあるわね。」
「どれ?」
すこしまえにさかのぼると
「それ、そのことば。」
彼女の耳に響いたのは『こころ』ということばだった。
「とてもいい響きね。なんていう意味なの?」
ぼくはだまって自分の胸に手をあてた。
『こころ』の意味を瞬時に理解した彼女は無邪気によろこび、なんどもそのことばを反芻していた。
「ひとつ日本語をおぼえたわ。」
音が意味を響かせた希有な偶然だった。
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