「何か」にとりさらわれる瞬間を夢見る
ブラームスはシンフォニーという構造に怯えながら、それでも「何か」を越えるために長大な時間をかけて1番を書いたという事実、それを踏まえてこの曲に臨まないとなりません。それは、音符でもなく、ブラームス1番に付与されてしまった経験知でもなく、漠然とした「何か」です。漠然とした「何か」は、当初はブラームスの心に宿っていたものであり、その正体は誰にも知ることはできません。自分達が知れることといえば、2次的な情報のみであり、そこからその「何か」をここで表さない限り、この曲の本意を表すことはできません。そして当然ながら、それは不可能ということになるのです。「何か」を表現することは、不可能である。これをちゃんと受け止めるところから始めないといけない。けれども、クラシック音楽というアートは、形像の変遷を伴ってしまうものです。それは、アートが変わるのではなく、アートを観測する観測者のありようの変化自体がもたらすものです。つまり、本質的な「何か」が「ある」とわかるのであれば、その「何か」がわからなかったとしても、今の私自身でその「何か」を受け止めるために考え続けることさえできるのならば、少なくともブラームスに怒られることはありません。それは、諦めでもあり、希望でもあるのだと思います。
大学1年の音楽を始めたばかりの時にブラームス1番と出会って、長い時間この「何か」にとらわれながら、演奏することを夢見ていました。たくさんの人がいる中で、たくさんの人が演奏をする中で、僕が他の人と違うと思うのは、この「何か」に囚われてながら長い間もやもやと考え続けていたのだということにすぎないのだろうと考えています。
今回の演奏会でなんとなく「一区切り」ついたようなきがします。何の区切りだかはわかりません。でもとにかく、儀式は終わりました。また次の演奏につながるための儀式。それが終わっただけです。つまり、何にも終わることはないということです。次も頑張ります。自分のために。
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