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死ぬ前までに食べたい100の美菓 甘納豆

落語家の八代目桂文楽さんは、どらやきで有名な上野の「うさぎや」の裏手に住んでいて、そのあたりの地名をとって「黒門町(くろもんちょう)」の愛称で親しまれた噺家さんだそうだ。

その文楽さんの当たり芸が「明烏(あけがらす)」で、話は学問にしか興味がない若旦那を大旦那が心配して、町内の若者に吉原に連れて行ってくれるよう頼む。若い衆は、堅物の若旦那を「お稲荷様のお篭り」だと騙して連れ出し一泊させる。翌朝、部屋をのぞきにいってみると、様子は一変、すっかり遊びの楽しさを覚えた若旦那ののろけを聞きながら、くやしまぎれに若旦那の部屋にあった甘納豆をつまみ食いする男たち。「朝の甘味はおつだね。これで濃い宇治茶かなんか入れてね。思い残すこと、さらになし」との負け惜しみをいう場面があって、文楽さんはこの噺を師匠の三遊亭圓馬さんに教わったそうだ。

圓馬さんからの教えの中に、豆の食べ方があって、枝豆、そら豆、甘納豆、みんなたべ方がちがうんだ、甘納豆をつまむ仕草では、指についた砂糖のざらざらした感じまで伝わるようにしなければならないというのがあって、文楽さんの甘納豆の食べ方はまさに名人芸だと言われていた。

だから、文楽さんの「明烏」がかかると、寄席の売店の甘納豆が売り切れたとの逸話も残っている。

その甘納豆はいつ、誰が作り出したお菓子なのかについて、ほとんどの本やサイトでは、安政5年、日本橋の菓子店榮太楼が金時ささげを用いて納豆をつくり、浜納豆に似たところから甘納豆となづけて売りだしたとあり、これが甘納豆の創始ということになっているようだ。

しかし、石川県金沢市の「甘納豆かわむら」のホームページによれば、作家檜山良昭さんの小説・幕末架空戦史「黒船襲来」では、甘納豆の歴史と成立ちについて、甘納豆の発明者は下曽根金三郎という武士で、江戸末期黒船来航のころ、 幕府の鉄砲組先手組頭をやっていたという。金三郎は発明工夫の才能があり、小銃の改良や射撃術の工夫に取り組むかたわら、 甘党であったため菓子の製造にも凝り、甘納豆も発明したとある。

静岡県浜松に「浜名納豆」があり、これは、煮た大豆に小麦粉をまぶし発酵させ、 半年塩汁につけた後、天日で乾燥させ、生姜・山椒・紫蘇・けしなどの香料を加えた納豆の一種で、金三郎はこれにヒントを得て、大豆に砂糖をまぶした菓子を作り、 浜名納豆をもじり、「甘名納糖(あまななっとう)」と命名のちに、「甘納豆(あまなっとう)」と命名したそうだ。

これが江戸で評判を取り、大いに売れ貧乏御家人だった下曾根は、知り合いの菓子屋に甘納豆を作らせ、利益の一部をもらっていたから、甘納豆のおかげで暮らしが楽になったという。

そして、その知り合いの菓子屋というのが、どうやら榮太楼だったといい、その後、榮太楼でもまた工夫を重ねて、現在の甘納豆に仕立て上げたそうだ。

しかし、榮太楼のホームページでは、名前の由来は、以前から交友のあった文人墨客の田中平八郎氏が『遠州浜松(静岡県)名物「浜名納豆」をもじって「甘名納糖」と名付けたらどうか』と言われて決めたといわれている、と書かれている。

甘納豆には目が無いから、由来はどうでも、ついつい食べたくなる。また、筆者にも甘納豆にはいろいろな思い出もある。

昔、駄菓子屋の当て物に、甘納豆のクジがあり、ハズレは小粒の甘納豆の小袋だったが、当たりは大粒の甘納豆で、なんとかそれを当てたくて、小遣いのほとんどを甘納豆クジに使い、親から叱られた思い出や、大学生になって、ラジオの文化放送でアルバイトしていた時、♪納豆、納豆、春日井の甘納豆〜、というCMが耳から離れず、スーパーで春日井の甘納豆を見つけては、買い漁っていたことがある。

幼児体験というのは恐ろしいもので、今でも甘納豆を見つけると、つい手が出てしまう。

写真は、日本橋榮太楼の甘名納糖。

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