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死ぬ前までに食べたい100の美菓 五家宝と吉原殿中

草加市の草加煎餅・川越市の芋菓子、そして熊谷市の五家宝を埼玉の三大銘菓と呼んでいる。このうち、草加煎餅と五家宝は、文化庁の100年フード「伝統の100年フード部門」に認定されている。

今年のNHK大河ドラマは、江戸の出版王、蔦屋重三郎がモデルだが、蔦重と交流があった、文人で狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ)の登場が楽しみだが、南畝の書き物の中にも、下諏訪の氷餅や時の将軍家治の日光社参に随行した際、道中で見つけた「五荷棒」と呼ばれる菓子が載っている。

また、晩年にも南畝は友人から「武州忍領北秩父辺の菓子」として、「五かぼう」というものを送られたと書いている。南畝も江戸の甘党ライターのようだ。

朝日新聞の校閲局長を務めた奥山益朗氏編集の「和菓子の辞典」によれば、五家宝は熊谷市石原の水戸屋というお店が元祖だという。

水戸屋は、その名のとおり、江戸時代、水戸から熊谷に来た初代原助が「五筒棒」をつくり、その後、明治に入って、「五家宝」と改めてたという。

最初の「五筒棒」は、熊谷の近く、上州邑楽郡五筒村の里人が、干した飯を蒸して、棒状にして、きな粉を付けて食べたことが由来になっている。

初代原助の出身地水戸には、江戸時代末期の頃から、「吉原殿中」という、五家宝そっくりの菓子がある。

創業嘉永5年の水戸の「亀じるし」のホームページによれば、吉原殿中は糖蜜ときな粉であられを包み、熟練の職人が細長く伸ばし、きな粉をたっぷりとまぶして仕上げたものと書かれている。

そして、吉原殿中のはじまりだが、私はてっきり江戸吉原で親しまれた菓子かと思っていたら、水戸藩九代藩主・徳川斉昭公は農民が、日夜汗と泥にまみれ働く尊い姿に心うたれ、自ら青銅で作った「農人形」(農夫の像)に食事のたび、最初の一箸のご飯を供え五穀のありがたさと農民の労に感謝したそうで、その農人形にお供えしたご飯をもったいないと奥女中の吉原が、そのご飯粒を乾燥させ焼いて、きな粉をまぶして作ったものを斉昭公に召し上がっていただいたところ、質素倹約を説いていた斉昭公は大変喜び「吉原殿中」と名付けたと言われている。

吉原殿中は「水戸の梅」とならぶ、水戸を代表する歴史のある銘菓になっている。

熊谷の五家宝と水戸の吉原殿中、いつか食べ比べてみたい。

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