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エヴァのオタクを俺はバカに出来ない。

新世紀エヴァンゲリオンっていつアニメが放送されてたか知ってます?1995年ですよ。俺生まれてねぇよ。
で、2010年くらいに私はエヴァのオタクに思ってたことがあるんです。

「いつまでエヴァの話してんだよ」

自分より上の世代のオタクは本当に口を開けばエヴァの話してたんですよ。らきすただったりハルヒだったりもしてたんですけど、エヴァを見たことがないというと、もう仲間に入れて貰えないくらいの感じで。2010年ですよ?けいおん!!もやってる時ですよ。こんなオタクにはなりたくないと小学生ながらに思ってましたよ。

そして時は流れ2024年、現在の私はアニメの話をするとほぼ確実にまどマギの話をしています。ちなみにまどマギは2010年に放送されていました。私も立派な老害オタクの仲間入りです。ハッピー。

お陰様で発作のようにまどマギの面白さに思いを馳せてしまう病にかかっているんですけど、そのときそのときで面白さの主軸は変わるんです。
とりあえず今は「徹底されたキャラクター」にあると考えています。

というのもですね、普通面白い作品って主人公達が物語を通して成長していくものなんですよ。スラムダンクもヒカルの碁もそうじゃないですか。キャラクターが初期にもってるキャラクター性を剥がしていって、その成長の過程、一皮むけた瞬間をどれだけ面白く描けるか、これが面白い物語のひとつの条件だと思うんですね。

でもまどマギって成長がないんですよ。というか脚本がまどか達を意図して成長させないようにさせてるんです。それでも面白い作品として成り立たせているのが整備されたまどマギ世界のルールだと思ってるんです。

知らない人向けに説明しますと、まどマギの世界は魔法少女が人間世界に害をなす魔女と呼ばれる存在を倒す、というのが物語の軸になっています。この辺はほぼ普通の魔法少女ものですね。で、魔女の正体なんですけど、絶望した魔法少女なんですよ。魔法少女の負の感情が一定値を超えると魔女になってしまう。このルールが開示された時のセリフがまたいいのでご紹介を。

「この国では、成長途中の女性のことを、少女って呼ぶんだろう?」
「だったら、やがて魔女になる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね」

このセリフで全ての視聴者はキュウべえに殺意を覚えたでしょうね。

まぁそんなことは置いておいて、このルールがある限り成長って見込めないと思うんですよ。成長には痛みが付き物で、一旦の絶望の中でもがいてもがいて手に入れたものが成長に繋がる、というのが一般的な成長の描き方です。スポーツ漫画でもバトル漫画でも1回は強敵に負けるじゃないですか。アレが必要なんですよ。

でもまどマギ世界はそれが許されないんです。なぜなら絶望した瞬間に魔女化(=死)するので。実際魔女化して死んだのはさやかちゃんだけなんですけど、魔女化した理由が「自分がこんなにズタボロになって守ってる市民に守る価値があるのか」という葛藤の末に心が折れて魔女化してるんです。(この辺はほぼデビルマンですよね。)普通の魔法少女ものだったら一旦は堕ちても、仲間が人間の美しさを説いてなんやかんやで復活!って感じになると思うんですよ。でもそんな都合いい展開にならないんですよね。まどマギ世界はルールが絶対なので。「奇跡も魔法もあるんだよ」が作中のキーゼリフですけれど、奇跡も魔法も都合よく起きない冷たさが痺れますね。

魔女化しないで生き残り続けているのが暁美ほむらだけなんですけど、それはほむらちゃんが成長を望んでいないからなんですよ。ほむらちゃんは時間回帰の能力があるので何度でも同じ世界をやり直せるんです。

で、同じ世界をやり直す理由が主人公であるまどかが死なない世界線にたどり着きたい、ということなんですけども、仲間の死を受け入れられないっていうのは成長の妨げに他ならないじゃないですか。

じゃあ主人公はどうなんだ、って話になりますよね。主人公はですね、最終的に概念になるので成長とかそういう次元の話じゃないんですよね。意味わかんないじゃないですか。概念化って。ただ、結局最初から最後までずーっと優しい女の子のまんまなんですよね。その点で成長はしていないな、というのが私の感想です。

ということでまどマギのキャラクター達は一貫してキャラクターのまんまなんですよ。人間ではなく、舞台装置のひとつとして物語を動かしていく。まどマギはキャラクターの魅力というより、徹底されたルールを、とんでもない演出で楽しむ、そういうアニメだから普遍的に面白く見られるんだろうな、と、今の私は思ってる訳です。

さよなら。