SNS時代の映像演出
テラスハウスの出演者である、プロレスラーの木村花選手が亡くなった。
正直なところ、テラスハウスは全く見たことないし、故にこの方も存じ上げなかったのだが、
「23歳の有名人が亡くなった」というニュースは何も知らなくても心をざわつかせる。
死因がはっきりしていないというが、「自死なのではないか」という声が多い。
木村選手は、テラスハウス内の行動や言動によって、SNSを中心に誹謗中傷を浴びていたようだ。
舞台となったSNSでは、今度はその証拠がたくさん出回っている。
本当に、SNSは皮肉な環境であると思わざるを得ない。
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SNSでは、どのようなフィクションでも、その架空性や仮想性があたかも現実のように語られる傾向が強いと思っている。
昔の2ちゃんねるではないが「ウソをウソであると見抜けない人に使うのは難しい」のではなくて、
「ウソが本当のことのように伝搬する」という性質があるように思える。
それは、2ちゃんねるのようなクローズドな場所ではなくて、ある意味で無秩序な社会空間であるために、誰も(ローカル)ルールを作れないし教えることもできない。
2ちゃんねるであれば、いわゆる「半年(半月)ロムってろ」という通過儀礼があるが、SNSにはそれがない。
小さなコミュニティなど存在せず、個人が純粋な個人として、匿名性を纏って発言できる場なのである。
このように考えたときに、映像による演出とSNSは相性が悪い。
自分がその演出を真実だと思っても、「それは過剰演出だろ」と面と向かって注意する人が存在しない場合がある。
仮に注意されたとしても、その人の意見を封殺できるので、いつまでも自分の中の間違った正しさを訂正できないままでいる。
これが2ちゃんねるの時代であれば、映像による演出に対しては、スレッドが立てられ、演者本人の目に触れることもないまま、閉じた空間の中での議論が進むことになる。
その議論の中では「あんなの演出に決まってるじゃん」といった反対意見や、ブラックジョークで茶化した面白い書き込みも自然と目に入る。
ふざけた議論のように見えるが、少なくとも色々な意見やコメントが目に入るので、自分の認識を考えるきっかけにはなるのだ。
一方のSNSでは、そのような議論が起こることはほとんどない。
そもそも、SNSはあまりにもオープンになりすぎているため、意見を戦わせる場に向いていない。
誰も意見を戦わせることがないまま、気づけば誰かに石やナイフを投げつけることになってしまう。
そもそも2ちゃんねるで「本人降臨」などほとんど起こり得なかったのに、SNSでは至るところに本人がいるのも、
そういったことを助長させる環境になってしまっていると感じる。
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それにしても、テラスハウスは、進むも地獄、戻るも地獄だろう。
打ち切れば
「なんで打ち切るんだ」「出演陣のためにも続けて!」
と言った数多の声を浴びることになるだろうし、だからといって継続したらしたで
「人が死んでるんだぞ」「不謹慎だ」
という批判を浴びることになる。
こういった“半ドキュメンタリー”は、よほど丁寧に作り、かつクライシスマネジメントをしっかりと行わないと、成り立たない時代になっているのではないだろうか。
昔、TBSの番組に「ガチンコ!」という、半ばヤラセのような番組があったが、あの構成はあの時代だったからこそ、ある程度受け入れられていたのであって、
今のSNS時代に放送していたら、全く別の社会現象を引き起こしていたに違いない。
演者が個人として特定され、
「(当時出演者の1人だったTOKIOの)長瀬くんと喧嘩するな!」「イキってて草」
などと、そういった言葉が本人に向けてどんどん投げかけられる様子が目に浮かぶ。
もう今の時代に、ドキュメンタリーとフィクションが混合する映像コンテンツは、受け入れられないのかもしれない。
お風呂に入りながら、そんなことを考えた。