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主観の世界と表現の自由を拡大解釈すれば、他者の世界観の蹂躙を必然化する

おはようございます!ニュース連動型おじさんだっくでございます。

今日2月18日は、雨水。「二十四節気」の一つで第2番目にあたる。現在広まっている定気法では太陽黄経が330度のときで大体が18日か19日が該当します。

「雨水」とは、雪や氷が解けて水となり、雪に代わって雨が降り始める頃という意味です。立春と啓蟄の間に挟まれて、イマイチ認知度が低いかも知れませんね。

最強寒波(この表現のセンスの無さ)が居座る今日この頃なので尚更実感が湧きにくいですが、春遠からじです。

さて、私たちは皆、自分だけの世界を持っています。その世界は、私たちの経験、価値観、信念によって形作られた独特のものです。

しかし、この個人的な世界観が他者の世界を支配したり、歪めたりする権利はありません。

表現の自由は重要ですが、それは他者の世界観を否定する口実にはなりません。

この複雑な関係性について、心理学的な観点も交えながらお話ししてみましょう。


そもそもなんでこんなお話になるのか?

ですよねえ。うちニュースに絞ったシングルイシューnoteですんで、寄り道感が半端ないです。

でも、一応ギリそれと言えるのが、これ日経COMECOの記事への反応なんです。

ザックリ言うと荒川さんの記事の主旨は以下の一文で言い表されています。

厳しい目で見られているなんて所詮本人の唯識の世界に過ぎず、自分が厳しい目で他人を見てるがゆえの世界観。

所詮本人の主観がその人の世界を作る「ヤバい」のは日本か?

SNSでよく見かける風景です。

でも、個々人の主観が他人に厳しい物であることで自分で自分に酔ってしまっていて、チョー迷惑。

そういう結果的に他者の世界観を塗り替えようとする傲慢さに気付いていない事例について言及しています。

あるある過ぎる話です。日本には憲法で保障されて思想・良心の自由とか表現の自由とかいう概念はあるのです。

でも、これが無敵の何かと勘違いしていたり、俺様こそ神で他は愚劣蒙昧みたいな世界観の持ち主だったりします。

日本は平和な国で思想信条で偏ったことを言おうと「目を合わせちゃ駄目」くらいで済まされますし、わりと同調してくれるマイノリティがいたりします。

他国であれば、異端として排除または殺傷対象になることも無邪気に口に出来たりします。

意味わからん世界

なので、良く捉えるなら成熟した風な言語空間です。

悪く捉えるなら馬鹿を増長させるクソ溜めを恥知らずにも放置している無責任の荒野とも言えます。

でまあ、現実を言えば限りなく後者な訳で馬鹿に付ける薬が無いという話なのです。

しかし、そこだけで終わらせるのもナニなのでもう少しそれっぽい(?)理屈をでっち上げてみます。

主観的現実とは僕たちが作り上げる世界であり世界観の衝突は避けられない

私たちの主観は、まさに私たちの世界を形作る基盤です。

この過程は、個人の価値観、感情、思考、そして体験の総体によって自然に生じます。僕らは無意識のうちに、自分の経験を通して世界を解釈し、理解しています。

この個人的な世界観は、私たちの存在そのものを形作る重要な要素です。

それは単なる偏見や個人的な見解ではなく、私たちの本質的な部分なのです。

しかし、ここで重要なのは、この個人的な世界観が他者の世界観を支配したり、ねじ曲げたりする権利を持たないということです。

個人同士に異なる世界観がある以上、それらの衝突は避けられません。

特に、私たちが自分の世界観を内心にとどめず、表現する段階になると、この衝突はより顕著になります。

この衝突は、時として建設的な対話や相互理解につながることもありますが、同時に必然的に摩擦や対立を生み出す原因にもなります。

ここで重要なのは、自分の世界観と同様に他者には他者の世界観があるという極めて当然の帰結を気づくことが出来るかどうかです。

何故他者にも他者の世界観を当然存在すると気づけないのか?

繰り返しとなりますが、僕らは全員が全員、自分独自の世界観を持っています。これは個人の経験、教育、文化、価値観などによって形成されます。

同様に、他者も自分とは異なる独自の世界観を持っているという事実は、論理的に考えれば極めて当然の帰結です。

しかし、この「当たり前」の認識を日常生活で常に意識し、実践することは意外に難しいものです。なぜでしょうか?

実は、僕らの世界観の形成と衝突には、様々な心理学的バイアスが意識の外で影響を与えています。

確証バイアス

確証バイアスは、自分の既存の信念や仮説に合致する情報を優先的に受け入れ、それに反する情報を無視または軽視する傾向です。

このバイアスは、私たちの世界観を強化し、時として他者の異なる見方を受け入れることを困難にします。

基本的帰属の誤り

基本的帰属の誤りは、他者の行動を説明する際に、状況要因よりも個人の性格や特性に過度に重点を置く傾向です。

このバイアスは、他者の世界観や行動を誤解し、不必要な対立を生み出す原因となることがあります。

内集団バイアス

内集団バイアスは、自分が属するグループ(内集団)を好意的に評価し、他のグループ(外集団)を否定的に評価する傾向です。

このバイアスは、異なる世界観を持つ人々との対立を深める可能性があります。

これらの心理学的バイアスは三位一体で無自覚に世界観の形成と他者の世界観を強姦するために行使されます

たちの悪い人は意識的に使うのですが、それは措きましょう。そこまで言及するのは正直面倒です。

思想・良心の自由と表現の自由

思想・良心の自由と表現の自由は、民主主義社会の基盤となる重要な権利です。

これらの自由は密接に関連していますが、それぞれ異なる側面を持っており正しくその範囲を把握する必要があります。

間違っても無敵の自分専用武器などではありません。

思想・良心の自由

思想・良心の自由は、日本国憲法第19条で保障されています。その骨子は3つです。

まず、内心の絶対的自由。個人の内心における思想や信念は絶対的に保護され、国家権力による干渉は禁止されています。

第二に沈黙の自由。特定の思想の表明を強制されない権利も含まれます。

第三に不利益取扱いの禁止。思想や信条を理由とした差別や不利益な取り扱いは許されません。

読んでもらえば分かりますが、主に国家権力からの干渉が対象とされていますが、実際は自分以外の全ての他者からの干渉や強制、差別を禁じる物です。

これは、自分の世界観で他者の世界観を優先的と捉え、干渉や強制、差別することも対象です。

自分の権利を主張する以上は他者の権利も尊重すべきという話です。

表現の自由

表現の自由は民主主義社会の基盤となる重要な概念です。

個人の人格的発展にとって不可欠であり、ジョン・ミルトンが述べたように、表現に対する抑圧は「自由で知的な精神に対して加えられる最も不愉快で侮辱的なもの」です。

しかし、表現の自由には責任が伴います。それは他者の世界観を自分の世界観で塗りつぶすことを正当化する根拠にはなりません。

むしろ、表現の自由は多様な意見や世界観が共存できる環境を作り出すためのものです。

内心の思想や信念を外部に伝達し表現する自由、多様な意見の交換と公開討論を可能にする自由はあります。

しかし、他者の世界観を吊るし上げ、晒し、嘲笑する権利などはありません。

社会的な問題を発見しそれを他者に伝えることは有為でしょう。

しかし、それが正しく公共の利益として意義があるかどうか他者の権利を侵害しないかどうかは、手前勝手に独善で行われる物ではありません

多様性の中の調和のために対話と相互理解が必要なんだけどさ

異なる世界観の衝突は必然的に発生し避けられませんが、それを建設的な対話と相互理解の機会に変えることは可能と思います。

そのためには、以下のようなアプローチを考慮するとマシな状況になるかも知れません。(気休めですが)

  1. 積極的な傾聴:他者の世界観を理解しようとする姿勢を持つ。

  2. エンパシー:他者の立場に立って考える能力を養う。

  3. オープンマインド:自分の世界観を絶対視せず、新しい視点を受け入れる柔軟性を持つ。

  4. 建設的な対話:対立ではなく、共通点を見出すことに焦点を当てる。

何故気休めなどと不穏なことを言うかと言えば、読んでいる方も薄々お分かりではないでしょうか?

そもそも他者にも他者の世界観を当然存在すると気付かない(気付きたくも無い)無敵の輩にこんなものが刺さるわけが無いからです。

こういった方々は「自分は正しい。相手は間違えている」という認識を唯一無二の真実であると捉えています。

そして、間違えを正さない相手は「悪」であると断じることが出来るくらい無神経で考えが浅いのです。

ですから、「あなたの世界観は数多ある世界観のうちの一つでしかなく、ぶっちゃけゴミカスみたいなもの」なんて客観的な事実に耐えられる訳もありません。

まあ、だからこそ「力こそ正義」みたいな理屈がまかり通って、「声が大きい」「(見かけ上の)支持数が多い」「嘘も何度でも言えば真実になる」などと色々な悪習慣を学習したバカが世論を牛耳ろうとするのは必然的なのです。

彼らにとって都合が良いことにSNSというのは、比較的マイノリティの人間が強固な偏見で他者を塗り替え拡散感染させるには非常に便利なプラットフォームとなっています。

つまり、マクロで見ればごく一部でしか物をあたかも全体のように演出して精神的な防御が脆弱な人を巻き込む。

本当のマジョリティに成り上がることが可能とする特異点として機能しているので、頭の悪い人ほど影響力を持ちやすいという逆転現象が定着しています。

主観の世界と表現の自由を拡大解釈して他者の世界観の蹂躙を必然化する現状で個人の世界と共生の道は厳しい

本人の主観がその人の世界を作ることは自然なプロセスです。

しかし、その個人的な世界観が他者の世界観を支配したり、ねじ曲げたりする権利はありません。

表現の自由は重要ですが、それは他者の世界観を尊重しながら行使されるべきです。

ただ、既にそういった「べき論」を語ったところで、通用しないくらいには世の中は俺的独り善がりの方が許容される世の中になっています。

可能な限りは望ましい方向性を示し対話をしたいものですが、主観の世界と表現の自由を拡大解釈して他者の世界観の蹂躙を必然化する現状で個人の世界と共生の道は厳しいのです。

わからんものはわからんでよろしい

僕みたいに浅学非才の立場では、自分はこうありたいという思いを表明するに留まります。

それ以上は荷が重いし、分不相応だなと思っています。無論、僕の世界観を蹂躙するつもりなら、相手を死んだ方がマシと感じさせるくらいに後悔させる心積もりはありますけれどね。

頭の弱い方との意思疎通が無理ゲーなのは良くある話という身も蓋もない結論でございます。

具体的事例でお勉強したい方用の記事も作ってますよ。

ではまた


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後はTherads(スレッズ)であれこれ流してます。結構辛口かも。

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