それでも夢を追いかける ―小林良 挑戦記#2
計り知れないスラムダンク奨学金の影響
宮本 大学の話を伺っていきます。ディビジョン2(以下D2)のブリッジポートを選んだ経緯はなんですか?
小林 セントトーマスモアでのシーズンが終わって、春休みにコーチから「コネチカットの大学でトライアウトの誘いが何校かあるよ」と言われたんです。その中の1つにブリッジポートがありました。大学は海沿いで綺麗だし、学力レベルも高すぎず、低すぎずという感じだったのですごくいい印象だったんです。ブリッジポートのトライアウトはとにかく5対5をやって、どれくらいできるかを見るんですけど、その日めちゃめちゃシュートが入ったんです。当時のキャプテンだった選手が僕にマッチアップしてくれて、「次は止めるからな」みたいなことを言ってくれるくらいバチバチにやってくれて、コーチからも気に入ってもらって、次の日にはフルスカラシップのオファーがありました。
宮本 えー、すごい!
小林 ただ、僕はディビジョン1(以下D1)に行きたかったので、コーチには「最後まで粘りたい」と話したんです。だけど、春休みのタイミングは結構ギリギリで、コーチから「ラストチャンスかもしれない。ここのオファーがもし消滅したら、もうないかもしれない。ここまで良のことを欲しがってくれているから、俺も背中を押す」と言ってくれたので、ブリッジポートに行くことを決めました。
宮本 鍵冨太雅選手(スラムダンク奨学金10期生/茨城ロボッツ)が以前、すでにピックアップされているD1のところに食い込むのは難しいと話していました。
小林 そうなんです。D1に行くには基本的に2年は必要なんですよ。今回、須藤タイレル拓(スラムダンク奨学金13期生/ノーザンイリノイ大に進学予定)がD1に決まったのは、もちろん元々の能力が高かったのは言うまでもないですが、2年間ジェリー・クイン(セントトーマスモアのコーチ)の元でプレータイムをもらって、いろんな人に見てもらえたことは間違いなく大きいです。言ってしまえば、僕も太雅さんも(木村)圭吾(スラムダンク奨学金12期生/新潟アルビレックスBB)もD1にいけるポテンシャルがあったと思います。ただ、1年間ではそこに食い込めるほどのインパクトを残せなかったことも事実ではあると思います。
宮本 僕もアメリカのシステムを色々知る中で、そこはすごく感じました。でも、全員がD1に入ることがスラムダンク奨学金の目的でもないと思いますし、D2、D3は大学の規模が小さくなるだけで、D1よりバスケも学力もレベルの高い学校がたくさんあります。
小林 そうですね。以前、スラムダンク奨学金の成功例、失敗例みたいな話をしている人がいて、アメリカの大学に入学した僕や太雅さんをスラムダンク奨学金の“成功例“と言われていました。でも、僕はそこにあまり納得いっていなくて、井上先生は「さまざまな経験をさせたい、世界を広げてあげたい」というコンセプトの元でスラムダンク奨学金を作ってくれていて、アメリカの大学に行こうが、日本に戻ってこようが、プロ選手になろうがなるまいが、その人にとっていい経験になって、その後の人生に活かすことができればいいと僕は思っています。そこの方針を井上先生ご自身が変えるのならまた話は変わってきますけど、そこはジレンマというか、難しいなと感じることはありますね。
宮本 鍵冨太雅選手がボウディンカレッジという世界的にも優秀な大学に行って、卒業をしてどんな世界でも活躍できる優秀な人材に成長したことも成功と言えますよね。
小林 そうなんですよ。そのきっかけは間違いなくスラムダンク奨学金なわけで、その1年間がなければ、太雅さんもボウディンには行ってないかもしれないと考えるとスラムダンク奨学金の影響は計り知れないです。それを支援してくれて、環境を提供してくれているのはすごくありがたいことだと僕は思っています。
宮本 これだけアメリカに選手を導いて、アメリカに行く選手が増えたことのきっかけもそもそもはスラムダンク奨学金だと僕は思うので、それ自体がもう成功というか……。
小林 そうですね。何が正解かは人によって違いますし、僕もアメリカに来て視野が広がりました。D1に行ってもプレータイムがなかったら意味がない。だったら、D2でプレータイムをもらっている方が上手くなるかもしれないし、僕はちょっと捻くれているのかもしれないけど、日本の学歴偏重みたいなところはあるのかなと思っています。
「こんなにいい感じなのに?俺たちは全米9位だよ」
宮本 アメリカの大学の「ディビジョン」は大学の規模感であって、実際に試合をすれば、D1に勝つようなD2、D3の大学はたくさんあります。それこそブリッジポートも強かったわけで……。
小林 1年目は(笑)。
宮本 (笑)。コロナであのシーズン(2019-20シーズン)が終わらなければ……。
小林 はい(笑)。1年目は本当に……。
宮本 ブリッジポートの1年目はいい成績を残せそうなうえに、1年生で唯一ローテーションに入っていました。コロナでシーズンが中断したときはどんな気持ちでしたか?
小林 単純に最悪でした(笑)。当時のキャプテンがキャリア通算999点だったんです。次の試合でフリースローを1本でも決めれば1000点だったのに、それもなくなり、しかも僕らはトーナメントのホストだったのでNCAAトーナメントの1回戦を僕らの学校でやれるという状況でしたが、前日練習が終わったタイミングでコーチの電話が鳴って、試合がキャンセルになったんです。
宮本 そんなに直前だったんだ。
小林 はい。「こんなにいい感じなのに?俺たちは全米9位だよ」って感じで本当に最悪でした(笑)。
小林・宮本 ハハハハ。
小林 1年目であそこまでプレータイムを貰えたのは本当にありがたくて、だからこそ、2年目からはシックスマン、もしくはスタートで試合に絡んでスタッツを残して、D1にトランスファーするというプランを描いてたんです。でも、コロナで3月からの授業もオンラインに切り替わるし、寮も閉めるから国に帰りなさいとなってしまって、その後は学校自体の体制も悪くなり、散々でした。
宮本 そんな中、コロナでスキップした1年と今シーズンはどのように自分でコントロールしていたんですか?
小林 今シーズンはメインで試合に出ることはわかっていました。だから引っ張っていかないといけないと思っていたんですけど、とにかくチームメイトを盛り上げることが大変で、なかなかまとまってくれなかったのが正直なところです。その中で、コロナのイヤーバック(※1)が決まったタイミングで色々計算をして、「3年で大学を卒業しよう」と考えたんです。
宮本 なるほど。
小林 残っている大学4年目のエリジビリティ(=プレー資格)とコロナのイヤーバックの1年を使ったら、2年間でバスケットボールのスカラシップをもらいながら大学院に行けるかもと思ったんです。夏の間に授業をとればいけそうだったので、アドバイザーの教授に相談したら、「行けるよ」と言われました。夏も授業を取るのはめちゃめちゃきつかったんですけど、3年で大学を卒業するプランを立てて、この春に卒業しました。
宮本 かなり大変だったと思いますけど、行けるとわかった瞬間からそっちに頭を切り替えた感じですか?
小林 そうですね。チームだけでなく、大学も学長も変わったり、経営面も良くなかったので、今、自分ができる最善のことをやるしかないなという感じでした。
宮本 大学の経営面というのは学生にも公開されていたんですか?
小林 公開なのか、非公開なのかわからないんですけど、僕らのところまで回ってきてしまって……。
宮本 映画みたい(笑)。
小林 そうなんですよ(笑)。学校は「公開するな!それは嘘だ!」って言っていたんですけど、「本当に嘘なの?」って感じでした(笑)。思い返すとおかしいことが色々あったし、一般生徒もトランスファーしたりしていました。
宮本 凄すぎる(笑)。
小林 正直どうすることもできないというか、本当に自分のやれることに集中して、待っていた感じです。シーズンがなかった年もブリッジポートがオプトアウト(参加を辞退)しただけで、カンファレンスは試合をしていたんですよ。結局、プレーしてもしなくてもイヤーバックはもらえていたので、なんでやらないんだろうとずっと思っていましたけど、何をしてもダメでしたね。
#3につづく
取材・文=宮本將廣
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