『ダブドリ Vol.11』インタビュー01 アイザイア・マーフィー(広島ドラゴンフライズ)
2021年4月30日刊行の『ダブドリ Vol.11』(株式会社ダブドリ)より、アイザイア・マーフィー選手のインタビューの冒頭部分を無料公開いたします。聞き手はライター・大西玲央。
玲央 沖縄生まれとのことですが、記憶はどれぐらいありますか?
マーフィー 3歳ぐらいまでしかいなかったので、あまり覚えていないですね。
玲央 そこからまるで気温の違うアンカレッジ(アラスカ州)へ。
マーフィー そう、雪だらけでめちゃくちゃ寒かったです。家に大きなドライブウェイがあって、車を出すために父さんと一緒に兄弟で雪掻きをいつもやっていました。大変だったなあ。
玲央 バスケットボールを始めたのはアラスカ時代なのですね。
マーフィー そうですね。
玲央 初めてバスケットボールと触れた時はどういう経緯だったのですか?
マーフィー 両親が、僕ら兄弟に揃って色々なスポーツをやらせてくれていました。ユースプログラムやYMCAなんかに参加したりしたのがきっかけですね。7、8歳の頃かな。子供の頃はなんでもやっていて、バスケに集中するようになっていったのは中学ぐらいからだと思います。
玲央 小さい頃から背は高かったのですか? それとも成長期があった?
マーフィー 一気に背が伸びたのは高1から高2(※アメリカの高校は4年制で高1は日本の中3に相当する)にかけて。172㎝から190㎝ぐらいまで一気に伸びたんです。
玲央 ではまだ小さかった中学時代にバスケにハマったきっかけはなんだったのですか?
マーフィー 他のスポーツよりも上手いってことがわかって、楽しくなっていったから徐々にやる回数が増えたんだと思います。
玲央 アラスカから青森に引っ越したのは中学の頃ですか?
マーフィー いや、4年生ぐらいだったと思います。
玲央 なるほど、では中学はほぼ基地で過ごしたんですね。
マーフィー お父さんが三沢基地に配属されて、学校も基地で通っていました。
玲央 基地での生活ってどういう感じなのですか? 学校も基地内にあるってことですよね?
マーフィー そう、敷地内に学校があります。だから軍の子供たちが多く通っている。小さなコミュニティみたいな感じですね。そんなに子供は多くない。中高一貫で、学校全体でも300人ぐらいだったと思います。
玲央 そこにバスケットボールチームがあったのですか?
マーフィー 中学校にはありませんでした。でも基地にもユースプログラムみたいなのがあったので、そこでプレーしていました。高校からはチームがあったので、入部した感じです。そこで他の基地のチームと対戦していました。
玲央 他の基地のチーム! 日本の学校とはやらないんですか?
マーフィー 練習試合なんかはしていたかな。でも大体が基地同士の対戦でした。
玲央 リーグがあったんですか?
マーフィー そう、ファーイーストって名前だったと思うんですけど、各基地のチームが集まって、大会を開くんです。
玲央 基地にいる大人の軍人なんかとプレーすることもありましたか?
マーフィー もちろん、いつも基地の体育館でピックアップゲームをしていました。
玲央 結構バスケは人気なんですか?
マーフィー 間違いなく。基地のチームもありました。確か〝Misawa Jets〟という名前だと思います。軍所属の人たちがプレーするチーム。
玲央 上手い人はいましたか?
マーフィー 沢山いましたよ。大学でプレーしていた人なんかも結構いましたね。
玲央 オフの日なんかはどういう過ごし方なんですか? 街に繰り出したりとかもしていました?
マーフィー 母の親戚が基地から1時間ぐらいの八戸に住んでいたので、よく会いに行って遊んだりしていましたね。基地の外で過ごす時間も多かったです。
玲央 若い頃はどれぐらい日本文化を取り込めていたんでしょう?
マーフィー どちらのカルチャーも吸収できていたと思います。基地にいたから、米国人の子供と一緒にいることでアメリカンカルチャーにも触れていました。それと同時に、母の家族と一緒にいると、そこの生活も見えてくるので日本文化にも触れてきました。
玲央 例えば放課後、家に帰ってテレビをつけたらどんな番組が?
マーフィー 基地のテレビは米国の番組も日本の番組も見られるようになっているんです。
玲央 じゃあカートゥーンもアニメもどちらも見ていた感じですか?
マーフィー いや、どちらかというと米国のカートゥーンばっかり見ていましたね。そっちに慣れていたので。でも朝起きるとお母さんが日本語のニュースをいつも見ていたのを覚えています。
玲央 小さい頃一番好きだった番組は何でした?
マーフィー 小さい頃好きだった番組……うーん、『スポンジ・ボブ』か……いや『スポンジ・ボブ』一択ですね。
玲央 三沢の次はアリゾナ州ツーソンということで、急にまた暖かくなりますね。
マーフィー 暑かったですね! すごく寒い場所からすごく暑い場所に引っ越したから、クレイジーでしたよ。でも楽しかった。軍基地っていう小さなコミュニティから、アリゾナみたいな大きな場所に移ったことで、大きな変化でした。
玲央 高校のチームはどうでしたか?
マーフィー 生徒が三千人ぐらいいる学校だったので、結構強いチームでしたね。州の強豪として知られていました。シエネガ高校。高2の時、全てが新しい環境という中でまずジュニアヴァーシティ・チーム(2軍)に入りました。高3になると身長は193㎝ぐらいまで伸びていて、ヴァーシティ・チーム(1軍)に昇格しました。そして高4ではヴァーシティで先発メンバー。そこから一気に加速していった感じですね。
玲央 高校で193㎝って、周りに自分より背の高い選手はいましたか?
マーフィー 何人かいたかな? でもずっとガードをやっていました。
玲央 結構強いチームだったんですね。
マーフィー そうですね。高3の時は州大会のセミファイナルまで勝ち進みました。高4の時は確か第2ラウンドで敗退したと思うんですけど、常に州大会常連でしたね。
玲央 ライバル高なんかはいましたか?
マーフィー いました、うちのシエネガ高とサグアロ高は地域で最大のライバル関係だったと思います。いつも対戦する時はビッグゲームという扱いでしたね。
玲央 他にプロになった選手なんかも?
マーフィー サグアロ高にネイト・レンフロっていう選手がいました。彼はサンフランシスコ大学に進学して、今はGリーグでプレーしています。
玲央 高校の頃にはもう完全にバスケットボールだけになった感じですか?
マーフィー そうですね、100%バスケットボール。あ、でも高3の時にバレーボール部のコーチがやってきて、彼女に「男子チームがあるんだけど、プレーしてくれないかな?」と聞かれたんです。なので1年だけバレーボールもやりましたね。
玲央 へえ! どうでした?
マーフィー 実は奨学金のオファーを貰うほどだったんですよ。
玲央 すごいじゃないですか(笑)。
マーフィー とても楽しかったです。結局続けることはなかったですけど、身体能力やジャンプ力を伸ばすという意味では助けになったような気がします。
玲央 高校時代にAAU(アマチュア・アスレティック・ユニオン)には参加していましたか?
マーフィー 高2と高3の時にプレーしました。ツーソン・スパルタンズというチーム。でもあまり組織されていなくて、とにかくクレイジーな体験でした。ある大会ではチームでホテルに宿泊したんですけど、一部屋に12人いたんですよ。
玲央 12人(笑)。
マーフィー ブランケットをかぶって机の下で寝ていたのを覚えています。なかなか酷い環境でしたけど、あれはあれでとても楽しかったです。
玲央 大きな大会にも出ましたか?
マーフィー ベガスやカリフォルニアの大会に出ましたね。
玲央 有名な選手と対戦したりは?
マーフィー ロンゾ・ボールやデニス・スミスJr.と対戦しました。
玲央 おおお! やはり彼らは目立ってましたか?
マーフィー ものすごく。実は当時は彼らのことをあまりよく知らなかったんですけど、今やNBA選手ですからね。
玲央 前号のテーブス親子とのインタビューで、BTさんが「AAUは自分のバスケ人生で見てきた中で最もクレイジーな世界」と仰っていました(笑)。
マーフィー いや、ほんとクレイジーですよ。ティップオフ直前にチームが走り込んで急いでシューズを履いていたり、もうカオスでした。
玲央 1日に3試合ぐらいやるんですよね。
マーフィー そう、試合が終わったら急いで次のコートに行ってまた試合をする。
玲央 若いからこそ出来る。
マーフィー プレーしてこい、はい! みたいな感じで。
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この後も、数々の選択の理由やU-19での同世代とのかかわり、そしてBリーグで対戦するなかですごいと感じた選手などたっぷり語ってくださっています。続きは本書をご覧ください。
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