稽古日記が、苦手なこと(「シバイハ戦ウ」閑話休題)
昔っから、日記が書けなかった。何を書けばいいのか分からなかった。いざ自分の日常を振り返る写真も写すほどの華やかさはない。
でも
写真にはうつらない、
想いだけが、いつもある。
芝居の稽古は膨大な日々の積み上げと、毎日ちっちゃな進化発見と喜びの地道な骨々(コツコツ)を絞り出し調理してやっと数十分、数日間の公演が出来上がる。
豚骨拉麺スープ作りより時間がかかって、とっても地味な作業なのだ。
稽古場でも演劇は、生モノだ
写真にしたら、別ものだ。
まさに今コロナ禍でリアルに感じている。
「公演の決定」「稽古場がない」「役者の決意」という僕と
「シバイハ戦ウ」の人物たち。
そのリアルと虚構が演じる僕の中で熟成され演技の出汁(ダシ)となるのなら、
「シバイハ戦ウ」という本番の隠し味を
この稽古日記に記した、そのエピソードを通して
お客様に、立体的にお芝居を
楽しんでもらえるかもしれないという密かな願いもある。
稽古日記を綴っていて驚いたのは、
これまでの自分と芝居について思いが吹き出たことだ。それも忘れていた記憶。
「なんで芝居を始めたんだっけ」
「何に感動していたんだっけ」
「仲間をどう思っていたんだっけ」etc
それは
「シバイハ戦ウ」のテーマのひとつでもある、奥行き深く豊かになりたい。
「人は、手放すために言葉にする。」
禅の世界でも意識されることが「空」につながるという。日記とは意識された言葉だ。意識したから言葉になって、だから初めて手放せる、だから忘れられる。そして
「空」とは「ひとつ」となること
べつでありひとつであるとわかること
気がついて数えてみたら30余年も「芝居の世界」に平成マルゴトに関わっていて、見ないようにしていて溜まりに溜まって詰め込んだ押し入れ満杯の忘れ物をやっと手放せそうだ。
ほがらかに、かろやかに、すなおに
あかるく、すべてなす、なさない
「俳優は、本番で、すべてを手放す。」
その時代、その空気、その場所で
観客と演じ手が交わる、どよめき。
劇場という空間で一人一人の
思い、きらめき
その時、感じている気持ち、躍動。
発光し、貰って、与えて
満たされて、
やっと完成する。
それが公演という
奇跡になっているのだと思う
最近の現代アートが
「感じる、その場」という表現になってきているのも
世の全てがコンテンツ化されて売買され大量に溢れて複製が簡単になり映像は無限に再現できるからだ。
でも舞台は、違う。
なンにも残さず
豊かな時間だけが、放たれた。
そう、昔っから。
はるかうつつの時代より
その瞬間の「ひとつ」と
なるために
シバイハ戦ウ。
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納得のいく答えなんかないけど
僕には、心躰と意思がある
動かさないのは、もったいない。