多様性を訴える側の多様性
こんばんは。よしたくです。
自分はギフテッドと呼ばれる"浮きこぼれ"の当事者として少しずつ発信している立場ですが、今回は少し立場を広げ、あらゆるマイノリティーの一員(と自分では思ってる)として書いてみようかなと思います。
お題は「マイノリティが多様性を認めてもらえるよう訴えるときに、何が大事なんだろう?」です。自分はひとりの当事者であり専門家でもないのでまぁ、自分はこう思ってるよーという、いちスタンスです。
いち個人として
これは一言で言えば、説得力を持つためには"あくまで平等であること"を目指すということに尽きる話で。マイノリティだからこそ、「マジョリティに負けない!」という対抗ではなく「自分もあなたも公平でそれぞれでいいじゃない」という目線を意識的に持たないといかんのだろうな、となんとなく感じています。
それを忘れると自分が優位に立とうとして相手を許容できなくなってしまうので、逆に差別の当事者になってしまう。なので相手が同じことをしても否定することが受け入れられなくなってしまう。結果として差別し合うもの同士でパワーバランスの緊張状態を生み出すだけになってしまう。ぶつかりあう力がイーブンだから優劣が生まれていないのと、ぶつかりあっていないことは全く別物なのをつい忘れてしまう。それはよろしくない。
とは言っているけど、これをマイノリティ側が踏ん張るのはとてつもなくしんどい。だってそんなスタンスはこっちが勝手にとってるだけのものだから。相手からしたら知ったこっちゃないし、知ったこっちゃないからこそ差別という排除が存在してしまうわけで。
そういった意味で、この"あくまで公平"のスタンスを取ることがプラスに働くためには大前提がある。それは"差別を良くないよね"という、"個人でなくみんなのため"の大きな力が働いているということ。つまり、それがない場所では上記の話は成り立たない。だからやったから報われるものというよりは、必要な条件の一つに過ぎない。
それでもそれを見失ったら力の押し合いになってしまい、もともと弱い立場であるマイノリティは結局居場所を失うだけ。だからこそ、自分自身が公平の当事者として強く存在しないといけないと思います。これは自戒。
マイノリティの集まりとして
そしてこれが難しくなるのは、マイノリティが集まり、立ち上がった後だとも思っています。だって、同じ立場の人が集まったら、今度はそのコミュニティにおいては自分たちがマジョリティなのだから。
つまり「自分たちを追い出すアイツら許せねーよな!」と盛り上がるうちに、どうしたって自分たち自身が持ってる偏りに気づきにくくなる。「こういう行動はよくない!」という話が、自分たちの共通の立場を元に「アイツラがこういう行動をするのはよくない!」という相手ありきになってしまい、自分たちが同じ行動を取ることにセンサーがはたらかなくなってしまう。これは、知らず知らずのついに自分たちが公平から遠ざかってるということでもある。
でも、マイノリティだってまずは声をあげようと思ったら、同志で結託して立ち上がるしかないんだから最初はどうしたってそうなる。そもそも偏りがない人間なんていないんだからしょうがない。だけどまずいのは、偏りに気づけなくなった時であり、同じマイノリティが集まったときはそれが加速してしまう時でもある。だから、それをセーブする仕組みは必要かもしれない。
そういう意味で、きっとマイノリティを訴える側にも多様性が必要なんだろうなと、最近考えています。つまり、種類の違うマイノリティが「なんにせよ差別はいかん」という共通の目的を持った上で、お互いのバランスを取り合うのは大事なんだろうなと。
これはきっとフェーズの問題で、最初はマイノリティが同志で立ち上がり、次にマイノリティの中に多様性が生まれ、もっといった究極系は「みんながなにかのマイノリティ」という、全員が当事者の世界なのかもしれない。
…とは妄想してみたものの、専門家が見たら「ひらめいたみたいな顔してるけどそれとっくに言われてっから」ということ浅い発想だと思うので、まずは勉強しながら自分個人として気をつけようと思ってます。そんないま時点の考えを残すログでした。
ではまた。
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