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近況:元気にやってます

こんにちは、よしたくです。

最近取材をいただく機会が増え、知人もそうでない方も多くご覧いただいているようです。ただ重い内容も含まれるだけにどうも気軽に"見たよ!"とは声をかけづらいようなので、今回は

「僕は元気にやっとります!!!」

という近況報告です。
確かに元気になってからこのnoteも更新しなくなったし元気になったことは伝わりようもないわなと気付き、久々に更新することを決めた次第です。

最近は↓のような協力をしております。よければご覧ください。

じぶんだいじに

抗精神病薬は転院してほどなくゼロになり、心に余裕を持てるようになりました。前職では幸い社内外で表彰される機会もあり、現職でも能力を頼っていただけていて、やっと人生が前に向き始めたと感じています。

これまでは後悔だけはしないように、自分を犠牲にしてでも意味を感じるところに筋だけは通して直進していました。いわゆる"生き急ぐ"というやつです。だからこそしんどいことが色々あっても自分の魂のかたちを損なわず来れたので、全く後悔はありません。

一方で、自分のこの先の人生を考えて一回自分に優しくしてみよう、自分が幸せを目指すことを許してあげよう、ということで5月の退職を境にスイッチを切り替えました。
(5月までお世話になった株式会社メルカリでは、チームメンバーに恵まれ安全に仕事をすることができました。本当に感謝しております)

具体的には自分の感情や思考と距離を保つためにマインドフルネスを取り入れたり、自分をギフテッドという好きでもないラベルで縛ったり過去を思い出して苦しみすぎることのないよう、必要最低限の機会を除いてはギフテッドという概念から距離を取っています。自分はたいしたメンタルは持ってないし、無秩序なSNSに身を晒してまでフォロワーを増やそうというガッツもないので、なにか記事やメディアが出ても全くエゴサーチもせず過ごしています。

そうしたおかげで最近は自分の特性や過去について考えすぎず、山小屋の老人のような気持ちで穏やかに過ごしております。ですが、正直に言えばこうして元気になろうとしている事自体にちょっとした葛藤を抱えているのも事実です。

進化か退化か、適応か迎合か

自分はギフテッドという概念に触れる前は、自分のことを"頭も心もセンサー過剰な人間"というように説明をしていました。これがまぁとにかくしんどくて、いちいちショックな出来事を真に受け、思考が回り始めたら手がつけられなくなり、そんな自分に振り回されてきたわけです。

だからそのコントロールを覚えて、平穏に暮らせるようになった。それは少なくとも安全に生きるためには前向きなことです。

一方で、この"センサー"が自分の本質でもあり、結果として能力を生み出してるメカニズムでもある(と思ってる)わけです。
あらゆる出来事を過剰なセンサーで必要以上に吸収して学び、それを自分の利益を顧みず社会貢献や自己実現に活かすというのがギフテッドと呼ばれるものの能力の源泉であり、与えられた使命でもあるでしょう。そう考えると、自分をうまくコントロールして安全と幸せを得ようとする行為は"ギフテッドの特性を捨てる"ことでもあります。これが進化なのか退化なのか、適応なのか迎合なのかは自分には分かりません。もしかしたら同じ特性をもつ人たちからしたら裏切りや放棄に見えるかもしれませんし、こうして自分の幸せを優先した存在が負のサンプルになるかもしれません。

とはいえたかが自分一人で今後の世の中を憂うというのは大層な思い上がりですので、葛藤の答え合わせは、また10年くらい経った頃に考えてみることにします。

失敗例じゃないとダメですか?

いくつか取材を受けているうちに気づくのですが、メディアのみなさんの目を惹くのは、自分が"いかに失敗したか"のようです。取材頂いた上で記事の素案をいただくと、負の側面は拾われど、その裏にあったポジティブな側面というのはどうしてもカットされがちです。
自分の過去に関する話で言えば、上司や同僚と衝突し、嫌われ、排除された…という話は拾われますが、その経緯を知った役員や人事に"君のような人材が必要だ"と認めて頂いた話や、その裏で挙がっていた成果の話はカットされます。医師に理解をしてもらえなかった話は拾われますが、理解ある医師に見てもらってあっというまに快復した話はカットされます。
特に学生時代については、昨今教育に関する議論が活発なだけに「自分は学校の外で学んだり交友を作れたので、教育はそこまで苦労せず潜り抜けました」とこちらから伝えても、「とはいえ大変だったんですよね?」という誘導を感じることはとても多いです。

ただこれを見て「やっぱりメディアはそうやって切り取るんだ!」と捉えてほしくない、という話をします。むしろ取材していただいたみなさんは、私のこれまでの苦労をより鮮明に伝えようとして、より刺激的で印象に残った部分を拾い上げてくれているだけなのです。

だけど、自分が伝えてほしいのはそんなところではありません。せっかく深く話を聞いていただけるのなら、「周囲に理解されず、嫌われて、それでもあなたが支え続けたものはたしかに価値があるものじゃないか」「いやあんたよくやってるじゃないか」と、歯を食いしばって支えた価値を拾い上げて伝えてほしいのです。
だから自分が嫌われて認めらなかったという側面だけを拾い上げられ、そこにまるで何も残らなかった失敗かのように伝えられてしまうのは、自分にとって耐え難い"切り抜き"です。そしてこの"切り抜き"による偏見に、職場や医療など多くの場で悩まされてきたわけです。

そんな"切り抜き"を、目の前で丁寧に話を聞いてくれた相手から改めて突きつけられるのは、相手の目線と立場は理解できてもやはりショックです。それがそのまま世に発信されるのも怖いです。自分は失敗者でないといけないのか、乗り越えることは認めてもらえないのかと、悲観的に受け止めてしまう時もあります。

話を戻しますが、取材をしてくれた方は全く悪意があるわけではありません。何度かこうした思いを取材主の方に還元しましたが、いずれのケースでも立場を理解して記事の修正に協力してくれました。それぐらい理解をしてもらうのは簡単ではないし、こちらからきちんと伝える必要があるということです。

どうぞメディアのみなさまにおいては無意識に"切り抜き"に加担することなく、その裏側で当事者が支え守ってきた大事なものにこそ、目を向けてあげてくださいませ。

"環境次第"でいいじゃない

とはいえ自分もよく悩みます。踏ん張って幸せに生きる姿を見せられた方が悩んでる人の希望になるのか、それが逆に「やっぱ手を差し伸べる必要なんかねーじゃねーか」と見放されることに繋がってしまうのか。我ながらいちサンプルが偉そうに憂いておるなとも思います。だけど、自分に多少なりとも役立てる価値があるとすれば、それは成功も失敗もした立場で「環境によるよね」ということを自身の体験を踏まえて話せる部分にあると思っています。

どうしてもギフテッドと呼ばれるような人たちが対象に議論されるとき、"IQが高くても世の中では役に立たないよ"とか、"悪いのは才能を殺す世の中の方だ"だの、価値の有無を0か100かで語られがちです。でも、自分はその考え方は好きではないし共感はできません。そんなことより「ちゃんと走りやすい場所さえ与えてあげれば還元してくれる人たちなんだな、だったら応援してやるか」と思ってもらえた方が、お互い理解と共存がしやすくなるんじゃないかと思います。レース用の300km/h出る車と公道を走るため80km/hの車で優劣を比較しても仕方なし。大谷選手は将棋を打てなくてもよいし、藤井名人はホームランを打てなくてもよし。

たまたま自分のような人間はその差が顕著ですが、結局はみんな大なり小なり"環境次第"です。ギフテッドに限らずみんなが自分のいいところで勝負できるようになる、そんな流れの一端になれれば幸いです。

ということで

これまでの内容を踏まえて、改めてお伝えさせてください。

近頃の僕は、おかげさまでとっても元気です。

おしまい。

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