『極悪女王』の本当に極悪な本質。私たちは差別感情なしでは、物語に感動しない
Netflixの国内コンテンツのランキングが、『地面師たち』から『極悪女王』へと塗り変わった。
前回のYouTube生配信でも、このドラマを取り上げて語ったが、ここではその内容をさらに加筆し、『極悪女王』の中にある、ほんとうに極悪な部分について語っていこうと思う。
このドラマの最大の見所は、主演のゆりやんレトリィバァで間違いない。
僕の中で現在の女性芸人として、もっとも好きなのは彼女なのだが、それを決定付けたのは、吉本興業が闇営業で問題になったとき、記者のインタビューに対して最高の対応をした瞬間だった。
芸能業界において、最大級の力を持つ事務所の不祥事と、そこに所属するタレントという苦しい立場でありながら、意見を言って失言するリスクを背負うのでもなく、社会的な正しさに訴えかけるでもなく、笑いを生業にする芸人として百点満点の対応だろう。
そんな彼女が極悪女王こと、ダンプ松本を演じると知り、そのビジュアルを見た瞬間「これはとんでもないドラマになるに違いない!」と確信した。
それは、ただ面白いとか、感動するとか、そういった簡単な言葉にまとめられるものではなく、このドラマ全体が、令和のコンテンツに対し、唾を吐いているように思えたからだ。
今回は、この『極悪女王』というドラマを、令和のコンテンツへの批評作品として語っていく。
今作をまだ未鑑賞の方は、この記事を読む前に、いますぐ『極悪女王』の世界へと浸ってから、この記事を読んでほしい。
・「誰も傷つけない笑い」の果てに生まれた『極悪女王』の80年代
令和のコンテンツとは何か?
ゆりやんレトリィバァに準えて、お笑いという枠に絞っても分かりやすい。それは和製コメディの形として定着した「誰も傷つけない笑い」である。
現在、その「誰も傷つけない笑い」の代表ともいえる女性芸人は、やす子だといえるだろう。
フワちゃんのXの失言騒動から、その後の『24時間テレビ』における、彼女の振る舞いと演出が、現時点での「誰も傷つけない笑い」の完成形だと、僕は考えている(番組のあり方について議論の余地はあるが……)。
「誰も傷つけないお笑い」は、ジャンルを超越し、いまや表現の形としてのスタンダード化してしまっている。
“お笑い”という枠組みの中で登場する人物に対しても、その体形や容姿を揶揄するスタイルは、もはや攻撃的過ぎて、それを見ている視聴者の誰かを傷つける可能性すらある。だから好ましくない。敬遠する。
僕は、そういった配慮が悪いとは思わない。
むしろ不特定多数の人々が見るテレビというメディアにおいて、その配慮があるほうが健全であろう。
しかし、その配慮が過剰になると何も表現出来なくなってしまうという側面もある。この世界のどこかにいる、傷つきやすい誰かへの目配せが、表現することへの面白さを丸ごと削りとってしまう。
災害ドキュメンタリーには災害経験者のトラウマを、犯罪描写があるドラマには犯罪被害者の辛い経験を、呼び起こさせるかもしれない。
介護に疲れている人は、介護施設を舞台にした作品は観たくないかもしれない。医療ドラマは、恋愛ドラマは……。
そう、何かを表現をするということは、誰かを傷つける可能性と切り離せないのだ。
物語の表現は、治療に似ている。傷を負い、治癒を経て、救済がある。
本当に素晴らしい表現とは、往々にして誰かを強く傷つけ、痛めつける可能性が大いにあるものだ。誰かについて痛く、苦しい経験が描かれるからこそ、その物語の中からカタルシスを得ることができ、観客の心を動かす力を持つ。いわば荒療治だ。
今回取り上げる『極悪女王』の舞台は、全日本女子プロレス(以下、全女)を舞台にした全五話ドラマ作品だ。
時は1980年代、そこには「誰も傷つけない笑い」などという、令和の生っちょろい概念などない。
令和の作品だけあって、侮蔑表現は最小限であるものの(ないわけではない)、ルッキズムによる差別も、プロレス業界の内のパワハラも、芸能界でマスコット的に消費される女性の性も描かれる。それは現代の視点からは“極悪な昭和”に映るだろう。
多様性なき80年代を舞台にした『極悪女王』が令和の現代においてなぜヒットしたのか。それはどの時代の人間の心にもある、差別感情に訴えかける、まさに荒療治のような物語だったからだと考える。
ここからは、その荒療治の如し『極悪女王』を語っていこう。
・「ゆりやんレトリィバァ」が「ダンプ松本」であることの残酷な必然性
ここから少し、残酷な話をする。いや、しなければならない。
しかし、その残酷な話の内容によって、この記事をもう読みたくないという人がいるかもしれない。僕のnoteのフォローを外す方もいるかもしれない。それでも語らなければならない。
なぜなら、それはこのドラマを語るのに最も大切だからだ。
はじめに、ダンプ松本こと松本香氏は、一般的な意識として女性の美しさという定義上、美しいといえるだろうか?
彼女が極悪同盟を率いていた時代、ダンプ松本としてプロレス界で最恐最悪の悪役だったとき、そのライバルとして、キャラクター的な意味でも対照的な存在として、クラッシュギャルズというアイドル的存在がいた。
クラッシュギャルズと極悪同盟の対立、善と悪の戦い、という作劇構造の中に、美醜による差別的な視線はないだろうか。
次に『極悪女王』にて、そのダンプ松本を演じたゆりやんレトリィバァ氏はどうだろうか。彼女は、美しいといえるだろうか?
彼女の芸風は、どれも自身の体形や顔芸を活かしたものであることが多く、ネタの内容もさることながら、その容姿の(良い意味でも、悪い意味でも)面白さが最大の魅力にもなっている。
僕はこの『極悪女王』というドラマの最大の魅力は、ダンプ松本の人生に、ゆりやんレトリィバァを乗せたことだと感じている。
この二人を今作で、ダンプ松本の半生を通して、一人の人物として合体させて描くことは、必然だったのだ。
それぐらい、ダンプ松本の物語と、ゆりやんレトリィバァの女優としての振る舞いが、マッチしている。そして、それは少々残酷な事実でもある。
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