このツケ、いつの?
普段買い物をするとき、あまりクレジットカードを使わないようにしている。現代人として(?)、珍しいのか、古臭いのか分からないが、今手にした物のツケが後からやってくるのが、気に入らない。
後払いという真っ当な取り引きシステムなのは重々承知だが、それは例えるなら、好きな物を先に食べ、後から嫌いな物を強制的に食べさせられ、そのプロセスが拒否できない給食のような感じだろうか。
しかしクレジットカードよりも、手頃かつ恐ろしく便利なのがPayPayである。僕はPayPayをクレジットと連動して使っているが、コンビニやスーパーのちょっとした買い物の会計が、ほぼ数秒で済むのでついつい使ってしまう(なので結局クレジット払いなわけだが)。
そんな記憶に残らぬコンビニなんかの少額会計も、積もればそれなりの額になり、残った記録はしっかりと後日、日を改めて「お願いします」とやってくる(ちゃんと払います)。
ここから話が飛躍するが、コレは人生にも充分あり得る話のような気がする。というよりは他者と毎日する会話や、示している態度なんかは、実はクレジット支払いのように、そこで他者に与える印象や行動は、いつしかそのツケや代償のような何かを払わなければならないのではないか?、という感じの不安感がある。
そんな日々に神経質になっていると心が擦り切れそうな感じがするが、これを人生の夢だとか目標に入れ替えるとなお分かりやすい。
自分の理想に向かって懸命に努力して、時間と体力を使い、状況と場合によっては人間関係にも亀裂が生じながらも我が道をゆく。
そんな我武者羅の先に何かを手に入れ、その刹那に訪れた幸福は、すぐさま過ぎ去って、今まで払った努力のツケが心の中で、突如湧き上がるような気がする。
いや、こんな何かに成功した状況じゃなく、失敗、断念、夢破れて心が倒れ込んでしまっても、同じように今まで支払ってきた様々な犠牲(めいたもの)が、ツケとして覆い被さってくる。
今までの僕の小さくて取るに足らない半生の中でも、幾つか僅かながらの大小の成功と失敗の後で、感じた“ツケ”はあったし、そんなツケがいつの日か、これまでの細々とした未納分の山積と、現在進行の分と、さらにこの先積み重なるトータル分で20年先ぐらいから、人生で最も大きく、回避不能のツケを払わなければならない事態に陥るような気がする。
それは“老い”という形で訪れるかもしれない。あるいは“病”か、もし結婚すれば(そんな奇跡が起これば)“離婚”か、そうでなくとも“断絶”か、ド直球に金銭で“破産”かもしれない。
とにもかくにも人生は続くし、続く以上は自分で降りるなんてしたくない。
終わらぬ間はきっと人間関係や時間などの無償(金銭で引き換え不可能という意味)で有限の可能性と関係に、魂を先払いし続けて無理矢理生きていくしかないのである。
それが多分、生きるということなのだと思う。だとするならなるべく気持ちよく、良い人間関係と時間を作って、そこへ魂を前払いしたい。
世界がときどき美しいからこそ、人は生きていかれるのだ 。
江國香織さんが、昔「泣かない子供」というエッセイで書いていた一言が、ツイッターで流れてきた事に触発され、最近の出来事も踏まえて、今回はババババーっと書いてしまった
この言葉におこがましくも、何かを付け加えるなら、「だからこそ、人生は厄介」ということだ。
「ときどき美しい」からこそ、その沼から抜け出せないどころか、新たな沼へまたズルズルと嵌ってしまう。
魂の先払いは、お金じゃないから多くの場合、負債は取り戻せない。それは何となく気付いてる。けど、やめられない。
ときどき「ときどき美しい世界」を恨みたくなる。