【短編小説】パリ五輪スケートボード女子
「やった! かえちゃん、日本が金銀ダブルや!」
「わー、おじいちゃん! 凄いね!」
居間から、父と娘の歓喜の声が漏れ伝わり、目が醒めた。
二人は現在、開催中のパリ五輪で大盛り上がりしている。何の種目だろうか。少し気にはなったものの、昼間の疲れを睡眠によって取り除きたい、という欲求には勝てなかった。
日中は、四十度に迫る猛暑の中、小三の夏休みを迎え、少々ハイテンションの娘の楓を連れ、車で三時間かけて福岡から、実家のある山口県は岩国へと帰省したのだった。
孫贔屓の両親に、楓の相手をしてもらう代わりに、私は実家にある自室からリモートワークをする魂胆だったが、初日から父と娘のあいだでの共通の関心事が、オリンピックになろうとは思わなかった。一日中、テレビに映るパリからの中継に、二人は声援を送り、一喜一憂している。
その盛り上がり様が、ときどき煩わしくもあるが、同時にスポーツへの好奇心が、開花した楓の感性の変化にも、関心を引き寄せられる。よって、リモートワークに集中するには、もうしばらく慣れが必要そうだ。
薄暗い自室の壁掛け時計に目をやると、時刻は一時半に迫っている。
楓を二十二時頃には、寝させるようにと父に言付けしたが、甘やかしたのだろう。十代に満たない娘の夜更かしは感心しないが、それが想い出の一つにでもなれば良いかと、いまは文字通り目を瞑り、再び眠りにつく。
朝。「お母さん! 日本、金銀メダル、ダブルだよ! すごいよ!」と、身体を揺さぶる楓に起こされた。重い瞼をそのままに楓に手を引かれ、よろよろと居間へ向かう。
母が「かえちゃん。お母さん、まだ寝かしといてあげんさい」と楓にいってくれたが、「大丈夫よ、母さん」と、私から返した。母は、母になった私の苦労を、我が事のように捉えているようだった。「すごいから、早く見せたくて」と楓は、母に笑顔で返し、母も「そうかね」と微笑んだ。
楓に促され、居間のソファに座る。母の手によって、トーストとコーヒーが自動的に目の前のテーブルに置かれた。
母の長年の習慣によって産みだされる、適切な具合に褐色をおびた、焦げ過ぎず、焼け足りないところもない、完璧なトーストに、私は柔らかいプラ製のふたを開け、バターナイフで切り取られた白黄色のバターを乗せる。熱のもったトーストに、乗せられたバターの表層がゆるやかに溶け、滑り始める。
楓はテレビのリモコンを操作し、録画された昨夜のパリ五輪の中継を再生する。「これ! 昨日の夜のやつ!」
アスファルトの上を、硬いホイールが滑る音。その均一な旋律は、選手がトリックを繰り出す意思によって途切れ、引き換えにボードと選手は、美しく宙に舞う。
楓は、このスケートボード女子の種目で、二人の選手が金銀のメダルを同時に獲ったことや、なにより選手たちのトリックをする姿に感動したようで、その熱意を伝えたがっている。
「これ、スケボーじゃん」思わず、声に出た。すかさず「スケートボード!」と楓は、訂正した。その訂正も無視して、私は「スケボーって、私が子供のころは、不良の遊びだったよね」と、小言を吐いた。
私は視線のみを、座っている父へ向け、表情を確認する。父は「んー」とだけ返事をし、テレビと楓を眺めている。
次は顔を傾け、母を見やる。母は、少しばつが悪そうに苦笑いを浮かべ、「さ、洗濯しようかね」と呟き、居間を去った。
私の、しんと冷めついて、静寂した心とは裏腹に、楓と父はメダリストへの賞賛の言葉を、テレビに映る時間遅れのパリへと送り続けている。
熱を帯びた地表を滑るバターを眺め、私は中学一年生だったころの、夕焼けを思い出していた。トーストの褐色に似た夕焼け、硬いホイールの均一な音、まだ若かった父の怒鳴り声。
「そんなもんはのう! 不良の、しかも男がやることじゃ!」
父は、わたしの足元からスケートボードを取り上げ、地面に叩きつけた。その衝撃により、ボードのデッキは、いびつな破裂音と共に真っ二つに割れた。
「スケボーなんかやりよる連中と、つるむな!」
あまりにも急な出来事に、呆然としたわたしを取り残し、父は家に入っていった。割られたデッキの残骸に、立ち尽くす自分の影が掛かる。それは、幼馴染の琢磨が、「キムやん、一緒にやらへん?」と譲ってくれた物だった。
一九九七年のわたしは、中学生になって不安定だった。誰もが迎える身体の成長と、それに伴う不安に苛まれ、自分らしく在りたい思いと、それに相反する女性らしくせねば、という内外からの圧力に戸惑ってた。
元々、女の子らしくないと評される性格で、学校でも、特定の派閥の女子グループに属するということもなく、男女構わず関係を築くようなタイプだったが、小学のときの友人とは疎遠になり、環境や人間関係の変化に精神がうまく対応できずに、心と身体が、ちぐはぐであった。
そんなときでも、琢磨だけが変わらずに接してくれていた。
彼のスケートボードが、父によって破壊される、この日までは。
琢磨は小五の春に、関西から引っ越してきた。
広島との県境であり、広島弁と山口弁の混ざりあう岩国において、関西弁の琢磨は、初めこそ異質な存在だったが、お調子者であった彼は、たちまちクラスの人気者になった。
小六の夏休みが明けると、彼の苗字が変わっていた。クラスのほとんどの生徒は、事情がよく分からないなりに、なんとなく触れてはいけないことのような気がしていたが、隣のクラスのやんちゃな連中は、そうではなかった。
ある日の下校途中、通学路にある公園で、琢磨と隣クラスのガキ大将だった林とその取り巻きが、殴り合いの喧嘩をしている現場に遭遇した。しかし、林側の人数は四人ですぐに琢磨は地面に倒れ、されるがままの状態になった。喧嘩というより集団暴行のような光景だった。
わたしは、「フェアじゃない」と直感し、見ているだけではいけない気がして、乱闘に走っていく。
「林ー! あんた卑怯じゃー!」と叫んで、振り向いた林めがけて、手に持っていたプラスチック箱の裁縫セットを振り下ろす。
まともに裁縫セットを頭に喰らった林は、「ぎゃ!」と唸って頭を押さえて、後退りした。裁縫セットは、林の頭とぶつかった衝撃で蓋が外れ、中の裁縫道具を公園の地面にまき散らした。林は頭を押さえて、地面に蹲った。
林の鼻から血が滴っているのを見て、わたしは「やり過ぎた!」と感じたが、動揺は表に出せなかった。ここで、舐められるわけにはいかない。
突然の女子の乱入に、一瞬、場が静止したが、林の子分の一人が「女子が、男の闘いには入んなや!」と怒鳴ったが、わたしは「四人で一人を叩くんが、男の闘い方なんか!?」と返す。
たじろいだ子分たちの隙を突いて、起き上がった琢磨は、子分のひとりの股間を蹴り、もうひとりに頭突きを見舞った。最後のひとりは、逃げ出して、それにつられて林も、子分たちも、その場から去っていった。
「なんや、木村さんか。余計なこと、せんでええねん!」
「はぁ? あんた、負けとったじゃないね!」
「勝ち負けちゃうねん。女子に助けられたら、カッコ悪いやんけ」
「助けられちょって、感謝はないんかね?」
「いやいや、こっちは頼んでないねん」
ケンカのきっかけは、林たちから琢磨の苗字が変わったことや、片親になったことをバカにされたからだった。
最初は無視をしていたが、母親への侮辱の言葉を発端に、琢磨が林の顔面にパンチを喰らわせ、鼻血を出した林は怒り狂い、仲間と数人で、琢磨をたこ殴りにしたのだった。林の鼻血は。わたしのせいではなかったことに安心感した。
数日後、この日の喧嘩が親の耳に入り、父から「ええ加減、少しは女の子らしゅうせぇ!」と、ひどく叱られた。
私は、その琢磨との共闘の日を境に、彼とよく会話をするようになった。小学生も高学年になると、異性の関係は友達関係よりも、恋愛関係という視点へと変化し、“男子と女子”が、“男と女”という文脈を如実に帯びてくる。
そんな息苦しさを覚える空気の中でも、琢磨は気にせず接してくれた。
琢磨と林は、いつの間にか仲良くなっていた。「喧嘩をしたから?」と、なんとなく考えていたが、府には落ちなかった。男子の人間関係は不思議だ、と思いながらも次第に、私と琢磨、林の三人で遊び始めた。
私はこのころから、「木村さん」という他人行儀な呼び名から「キムやん」と呼ばれるようになった。
林は、小六の冬休みを前に、苗字が旧姓の杉本へと変わった。彼と琢磨は、共通の理解が芽生えたのか、そこから更に親しくなったが、杉本になった林は、小学卒業と共に、四国へと越していった。
わたしと琢磨は、同じ学区の中学に進学したが、クラスは別々になった。それでも時折、顔を合わせれば琢磨は変わらず、お調子者の彼のままだった。
少数だったが「付き合ってんの?」という周囲の声を、いつしかわたしは、過敏に意識するようになっていた。自分の中に芽生えていた女であることの自覚と、恥ずかしさが邪魔をして、いままでのように、琢磨に近づけなくなっていた。
これを「好き」という感情だったのかは、いまでもよく分からない。
女である自覚の変化は、身体の女性的な成長を迎えると共に、身に付ける衣服への関心も変化させ、これまでの“わたし”の中に“女性であるわたし”という部分が、あらわれていた。
父は、いままでの「女の子らしからぬ娘」という私から「やっと女の子らしさが芽生えた」と喜んでいたが、その思いが「女性であれ」という押し付けのように思えて、好きになれなかった。
中学生になったわたしは、これまでの自分と、変化する自分との間で、立ち往生してしまい、まるで脱皮の途中でそれをやめたザリガニのように、自分を中途半端で、惨めな存在だと感じていた。
夏休みのある日、女子友達と数人で、広島の繁華街へ出かけ、夕方には岩国駅へと帰りついた。駅構内のミスタードーナツに寄り、一時間ほど潰して解散した。
なぜだかそのタイミングで、帰り道にあの共闘した公園があるのを思い出し、そこを通って帰ってみることにした。
公園に辿り着くと、夏休み期間中で小学生も多く、さらに夕方ということもあって、仕事帰りのサラリーマンや大人たちの姿もあり、夏の陽気に浮足立った者たちで、落ち着きがなかった。
少し遠く、後ろの方から、ごおおお、という聞き慣れない音が近づいてくる。振り返ろうとする刹那、背の高い男が音と共に、後ろを通り過ぎていった。
音の正体は、スケボーだった。スケボーのホイールが、新しく舗装された公園の硬いアスファルトの道を滑っていたのだ。
わたしから十メートルほど離れたところで、遠くから「こら! スケボー禁止じゃ!」と、怒鳴り声が飛んできて、その男はスケボーを器用に降り、声の方向に会釈した。
スケボーを降りたその男の存在感は、たちまち縮小し、こじんまりとして見えたが、それでも自分よりも、すらりと背が高い。
スケボーを注意された手前、男は公園にいるのが気まずくなったのか、振り返って最寄りの出入口に引き返そうとしたところで、わたしとその男は、目が合った。
「え、琢磨?」
「おお、キムやん。やんな?」
「背、高うなったね」
「キムやんこそ、ええ感じに、色気づいてるやん」
しばらく会わなかった間に、印象や雰囲気が変わっていたことに驚いたが、スケボー男は紛れもなく、関西弁のお調子者の琢磨だった。
“色気づいてる”という言葉は、引っかかったのに、不思議と悪い感じがしない。しかし、猛烈に恥ずかしいような気さえする。いますぐ逃げ出したいような、それでいて、これから何を話そうか、頭を巡らせる。
「キムやん、一緒にやらへん?」
「え? スケボー?」と問い返そうとしたが、その言葉が口から出るよりも早く、琢磨のその一言が、わたしをいまでも変わらずに受け入れてくれる証明のような気がして、返答の選択を切り替える。
「え? どう乗るん?」
「まずは、この板の上にやな、右足を置いて――って、いま注意されたばっかりや、あかんやろ!」
「あ、ノリ突っ込みだ!」
「うるさいわ!」
「ははは」
「他んとこ行くでー。四丁目の公園やな。にしても暑いわ、そこの自販でジュース買ってこ。飲むか?」
「うん」
「奢れへんけどな」
「なんでやねん!」
「うわ、エセ関西弁やん」
琢磨は、そういいながらも自販機でファンタオレンジを買ってくれた。ミスタードーナツのエンゼルフレンチと、アイスティーでいっぱいのお腹に、ファンタオレンジを流し込みながら、別の公園を目指した。
スケボーの練習をしながら、互いに近況報告をした。
何気ない会話や冗談の言い合いのなかで、時折、琢磨は表情を曇らせるので、理由を問うと、彼女が出来たのだという。
「お! ついに出来たんじゃね! 良かったやん!」
嘘ではない、むしろ喜ばしい。喜ばしく感じてはいるが、あの公園で共闘を演じた琢磨は過去になり、いまは“男”として、ここに存在している。その事実に、戸惑いを感じた。
「アホか! ええことあるか!」
相手の方から告白され、悪い気もしなかったので、付き合い始めたが、どうしたら良いか分からず、口喧嘩も多くて困っているという。
「なに? わたし、恋愛相談されよるん? 男子と付き合ったことないんじゃけど」
「そんなんちゃう。けど、なんか、彼女できたら、周りの態度が面倒くさなって、しんどいわ」
「まーねー。わたしとここで話よるんも、他の女子に見られたら、ヤバいんじゃないん? 二股いわれるで」
「それや、そーいう感じや。ほんまにだるい」
互いに沈黙した。遠くで小学生が雄叫びをあげながら、ブランコからジャンプをする遊びを繰り返している騒音だけが、二人の空間を埋めた。
「あ? なんでやねん。キムやんが二股相手って。なんで俺とお前やねん! 自意識過剰ちゃうか?」
「は? わたしの気持ちは関係なくて、女子っちゅうのは、そういう噂話が、好きな生き物なんでっせ!」
「ほんま、女子のそういうところ、好かんわ。あと、そのエセ関西弁やめぇ」
二人で笑いながら話していたが、互いに何か、気まずい空気が漂っていることにも、勘づいていた。
私は、もう今までのように互いに分け隔てなく、話したり、遊んだりする関係――それは友達というと少し他人行儀で、親友というにはあっさりしている。けれども、恋愛なんて入る余地もなくて、それでいて少し気には掛かっているような――そんな例えようのない関係の終わりを予見し、暗闇に落ちてゆくような喪失感を、このとき感じた。
「キムやん、これ乗って帰ってええで。おれ、家に兄貴の乗ってないのあるし」
「いや、スケボーとか、趣味じゃないけぇ」
そういって、はじめは断っていたが、「ええから、ええから」と押し切られ、仕方なく持ち帰ることにした。琢磨は、なんとなく私との繋がりを保つために、そうしたのかもしれない。私は形見のような気分で、それを受け取った。
「そんなもんはのう! 不良の、しかも男がやることで!」
父は、私が女の子らしくなることに、喜びと安心を抱いていたのだろう。そして、その変化を揺るがしうる「スケートボード」という存在を脅威に感じ、また当時の私には、実際には存在していない“男”の影を感じ、ヒステリックになったのだと思う。
対して、スケボーを割られた私は、さほど怒りも悲しさも抱かなかった。それは琢磨との関係が、あの公園で交わした会話を最後に、終わってしまっていたこと、そして、スケートボードという“遺品”への愛着も、既に喪失していたという自覚を、父がスケートボードを割ったことによって、気づかされてしまったからだ。
その歳、その時代の、「わたし」の中にたしかに存在した、僅かだったけれども特別だった、男の子でも、女の子でもない時間。それを証明していた琢磨という存在の変容によって、これまでの世界は「すでに終わったのだ」と、切り替えが完了していた。
「お父さんね、スケボー壊したこと、あのあと、ちょっと後悔しとったんよ」
父と楓のスケートボード観戦に付き合ったあと、洗い物をする母は、私に、そう語りかけてきた。
「あのころ、まだスケボーって、世間に認められてなかったけぇね。あんたに、変な虫が付いたんじゃないかと、後からそわそわしながら云いよったんじゃけぇ」
その声は、申し訳なさそうでいて、そのうえ答え合わせをするような印象を抱かせる。
「いや、ええんよ。もうずいぶん前のことやし、そのときも私、そんなに怒っとらんかったやろ」
「そうやった? あんた、あんまりにも何もいわんけぇ、お父さん余計に考え込んどったし、あたしも、相当怒らしとったと、思うとったんよ」
「まぁ、人のもん壊したんじゃけぇ、怒るのが普通よね」
父にスケボーを壊される直前に、私の中で、もっと大切なものが壊れていたことは、秘密にしておく。
「かえちゃんが、朝からずっと、スケートボードやりたい、やりたい、って、いいよるんやけど、大丈夫やろうか?」母が笑いながらいった。
「なに? またお父さん、スケボー壊すかね?」私も笑いながら、返した。
「あ、そうだ。もし楓の熱意が本当なら、スケボーは、おじいちゃんに買ってもらおうかね!」
「そうじゃね。お父さんに罪滅ぼしさせんといけんね」
二人で笑っているところに、父と楓が入ってきた。
「なにが、面白いんや?」と、呆けた様子の父。
私と母は顔を見合わせて、また笑った。
「お母さーん、わたし、スケートボードやりたい!」父の後ろから、楓が出てきて、大きな声でいった。
私は、父を見つめたまま「お爺ちゃんに、頼みんさい! お爺ちゃんなら、良いスケボー、絶対、買ってくれるけぇ!」
私と母と楓が、笑い合い。父は頭を掻きながら、苦笑いした。