季語つれづれ〜感情語の魔力
「強い刺激にはすぐ慣れてしまって、もっと強い刺激が欲しい」。これは、深刻な社会問題の話ではなく、日本語の俗語の特徴を誇張したものです。一口に日本語の特徴と言っていいかは分かりません(国連による地球温暖化→地球沸騰化の例もありますし)が、ネットの言葉を観察していると、何年か前には「控えめに言って最高」という言葉がよく使われていました。「最高」という意味に付随する感情の強さをより強い方向へ表現しようとする。今だと、旧ツイッターで「いいねが1回しか押せないとはどういうことだ」というのが多いでしょうか。要するに、感情の強さを表現したいという欲求が強く、しかし、強い言葉は慣れてしまうとそれが当たり前になって、より強い言葉を求める……。言うほど他の言葉を知らないので、他の言語に見られないとは言えませんが、日本語を見ていると、こういうところが多く、興味深いと思います。
さて、今回は季語についてのお話です。夏はとても暑くて参っちゃいますが、暑さを示す言葉にも強弱があります。天気予報で聞き慣れた暑さの強さを示す度合いは多くの人が知るところでしょう。そんな天気予報の言葉と俳句の言葉では、言葉が若干違うようなことをテレビで見た記憶があります。多分、NHK俳句でしょうか。細かいことは忘れちゃいました。
天気予報では、最高気温が25度以上の日を夏日、30度以上になると真夏日、35度を超えると猛暑日、2022年から、40度を超えた日のことを酷暑日と呼ぶようになりました。また、最低気温が25度を超えると熱帯夜ですが、30度を超えると、超熱帯夜と呼ぶようになりました。
(参照)
日本気象協会 暑さに関する名称について気象予報士130名にアンケート調査を実施 最高気温40℃以上は「酷暑日」、夜間の最低気温30℃以上は「超熱帯夜」に | JWAニュース | 日本気象協会
最高気温に着目すると、「酷暑日>猛暑日>真夏日>夏日」という強弱関係が見られます。酷暑日なんて言葉をカジュアルに使う日なんてそうそう来てほしくないですね。
では、俳句の季語での強弱を考えていきましょう。気象予報士の方の説明がわかりやすいので、お借りしましょう。
tenki.jp内のトピックス記事(吉野美来さん)の2018年の記事では暑さの強さは以下の通りまとめられています。
記事では漢字の素養があれば、微細な表現を豊かに楽しめるという論旨であると思います。同感です。
では、裏取りで、俳句の歳時記を見てみます。最新の気候に対応しているであろう最近の歳時記が良さそうですね。
手元にある、文庫版『俳句歳時記 第五版 夏』(角川ソフィア文庫・2018)を参照していきます。
なんとなく、整理しながら、暑さの感覚を体の内側の様子(肉体的感覚)と外側の様子(景物から受け取る感覚)に分類しました。肉体的な感覚は、季節の流れ、暦で分類しているという印象を受けました。つまり、時間の経過を重んじているということです。もう一つの分類は、景物から感覚を経由して暑さを認識するイメージです。感覚器官を経由して暑さをじわりと感じる感覚です。
さて、裏取りをしたものの、考えていたことと違う結果が起こってしまいました。俳句の歳時記で示す暑さは、強い感情をより強くしようという動機づけより、この時節はこういう感覚だという、カレンダーの意識が強いのですね。外面的な部分でも、暑さの因果、例えば、日差しが熱いとか熱せられた物が熱いとか熱源は、風なのか光なのか湿気なのかという部分で整理する方が良さそうです。
念のため、角川の大歳時記も参照しましたが、新しい発見はありませんでした。とりあえず、暑さを表す言葉を拾っておきます。
さあ、困りました。「歳時記は暑さの強弱意識が現代語と異なる」となれば、強さの番付を想像することが難しいです。本稿のとりあえずの結論として、暑さの強さを示す度合いの言葉で、整理してみます。カレンダー基準では、大暑(7月下旬ごろ)以降、8月上旬ごろまでを一番暑いと考えますので、時系列で整頓すると、
という関係はとりあえず言えそうです。この中で強さの格付けをしてしまいましょう。天気予報では、酷暑>猛暑という序列が出来上がっているので、あとは極暑と劫暑です。このように強さの度合いを歳時記に求めると、あと二段階の変身の余地を残している。娯楽漫画のようです。問題はどちらがより強い言葉かという争いになりそうです。極暑を最初に出すと、その先が大変になる。となると、極みは最後でしょう。劫という言葉は聞き馴染みのない言葉ですが、「未来永劫」という言葉が示すように、ひたすら長い時間という意味があるそうです。でも、それじゃあ意味が通らない。OS付属の中国語の辞書を見たら、「災禍」と書いてあった(例・地獄の劫火)ので、災いという意味で考えてみて、酷暑の上にしたい。そうなると、
となるのが穏当でしょう。もちろん、この序列は万能ではないので、ご参考までに。でも、序列を考える作業は愉快じゃないですね。暑さが極まったら、もう人が暮らせる環境じゃなくなっていますもの。
徒然なるままにおまけです。
前述のテレビの記憶で、「猛暑という季語はない」と言われていた記憶があったのですが、古い歳時記ではどうでしょうか。座右にある歳時記を総動員してみます。
酷暑や猛暑という言葉は、季語として新しいのか、重要性を持っていなかったかで採用されていない歳時記が多い印象ですが、これだけ一般的に使われるようになって、歳時記にも選ばれるようになっていったと考えていいかもしれません。昔は季語としての格はなかったけど、これだけ多くの人が使うようになったから採用しようというストーリーを想像します。
しかし、「劫暑」は角川の歳時記でしか見られません。なるほど、「劫暑」という季語は、若い俳人が企むより前に、「より強い刺激」を求める日本語として生み出された季語なのかもしれません。
ちょっと興味が出てきたので、「劫暑」を調べると、例句が出てきます。例えば、片山桃史の<我を撃つ敵と劫暑を倶にせる>という句が出てきます。
(参照)
我を撃つ敵と劫暑を倶にせるの作者 わかりやすく解説 Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/我を撃つ敵と劫暑を倶にせる
時代背景を考えると、戦火に焼かれた戦場の暑さを「劫暑」と呼んでいるのでしょうか。「無季俳句」となっていますし。この言葉を簡単に極暑の傍題と考えていいのか、ちょっと悩ましいです。
徒然なるままに書いてきましたが、全体の結論として、天気予報の文脈のような大衆が求める感情の強さと、俳句の文脈で提供できる感情は性質が異なるものです。こうした感情に対する取り扱いは、俳人でも争いがあるでしょう。商業的に成功したいなら、大衆的な感情の強さを俳句に求めるだろうし、別な感情の文脈で考えたい人は、例えば、季語の本意を大事にしたいなら、感情を季語だけで表現しないで一句の全体を使って感情を読み込むでしょう。あるいは、そういった手垢のついた表現を避けて、こういう文脈とは異なる文脈で考える人もいるでしょう。個人的には中間ですね。ミーハーに新しい季語として使いつつも、時々言葉の意味を点検してみると、言葉に対する理解が深まります。哲学というとお堅いですが、当たり前なことに問いを立てて、考えていくのも良いのではないでしょうか。
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