俳号を何故つけるのか(コンパクト版)
ネット上で少し話題になった、「何故俳号を付けるのか」という問題について考えましたが、長々と書いているうちに結論がぼけてしまったので、要約版を用意して、コンパクトにまとめてみます。
まず、発想を広げるところから始めます。俳号を付けるのは、自分で付ける場合と他人に付けてもらう場合があります。他人に付けてもらう場合、子どもの名付けと同じ感覚(本質を見たり、未来を見たりして決める)を想像しますが、時折見かける(主に師匠に付けられる)変な号は、擬制的親子関係強化のために付けられる印象があります。人生を滅茶苦茶にする代わりに責任を取るよという関係ですね。そういうケースは、師弟間で遊び感覚の合意が取れなくて、持続しないことが多いようです。名前で遊ぶなんて、芸人さんみたいですね。自分で名前を付ける場合は、最近の流行は、変身願望と考えることが多いですが、発想を広げるのであれば、匿名化して自分を守るという発想もあるでしょう。
名前を付けるときに、真面目に付ける人、不真面目に付ける人、それぞれいますが、検討してみると、名前が人生の目標であるという発想からは外れたものではないです。例えば、砕けた席であるならば、その場限りの座興の号を名乗ることは、おかしい話ではない。座興の号は短期的なものであるけれど、長期的に使うのであれば、人生を賭けてふざけなければならなくなります。社会には、名前を巡ってそのような合意形成があります。不真面目なことが良いか悪いかの争いはありますが、名前が行動を規律するという根底の部分には合意があると思われます。
また、本名をそのまま号にする場合、自分の人格と書いている事を切り離さずに、自分に正直に言葉を発する事を宣言しているように思えます。裏を返すと、本名を号にすると、自分に嘘がつけなくなります。あるいは、名前によって言葉を縛るということでもあります。
僕の場合はどうでしょうか。俳句の発表に使っている名義と大門の号を使い分けていますが、前者で書く言葉は軽口が叩けなくて、大門名義だと少し遊び心が出てきます。大門は昔使っていた号ですが、こういうところでまた使うようになると、顕名でも匿名でもないちょうど良い緊張感があります。名前を考える時は、覚えてもらえる名前を目指していたのですが、今使っていると、「俳句と距離を取る」のにちょうど良い距離感で気に入っています。
「名は体を表す」という諺がありますが、今回の考察ではその発想を超えることができませんでした。とどのつまり、俳号は、自分の言葉にどのような範囲で責任を取るかという宣言であると考えます。
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