5年先の世界【エセ・エッセイ030】
今、私は5年先を考えて動いている。
ひょっとすると、これまでの人生で初めてかもしれない。
というのが、私は未来を描くのが本当に苦手なのだ。キャリアカウンセラーとして人に向かっては何度も「未来を描いてみましょう」と口にしてきたが、実は描ける人を心から尊敬していた。
この苦手な理由を考えてみると3つほどあったので、以下へ挙げてみたい。
一つ目。『絶望への恐怖』
未来にどうなっていたいかを決めたところで、この先どうなるかなんて全くわからない。もし病気やケガや災害が起きて物理的、精神的、経済的にままならなくなったとき。未来に希望を持っていればいるほど絶望は大きいだろう。それが恐ろしい。
二つ目。『真面目がゆえの苦しみ』
1年後にどうなっていたいかなんて決めてしまうと、そこに向かう行動にレールを敷かれるようで息苦しくてたまらなくなる。周りは「その通りじゃなくていい」と言ってくれるだろう。だけど1年後が望ましい未来であればあるほど、諦められず頑張り続けてしまう気がする。苦しくなるほどに。
三つ目。『自由への制限(の予感)』
未来を決めてしまえば、どうしても自由度が低くなる気がしてしまう。偶然にもたらされる出会いや誘いなど、自分がこれまで思いもよらなかった力によって思いもよらなかった人生がそこから始まる。そんな展開にワクワクするし憧れているのだ。だから出来る限り、未来の予定はまっさらにしておきたい。いつ何時、素敵な出会いがあるかわからないのだから。
こうした理由から未来を描くことを拒んできた私が、ここにきてなぜ描く気になったのか。まして、5年先という中期的な未来を。
理由はシンプルに、この5年という期間がちょうど良かったからだ。
良い感じに責任を伴わず、イメージもなんとなくぼんやりとしていて、叶えばいいな」ぐらいの距離感。どうなるかは未知の領域で、でも10年先ほど何もかもは変わらない。それが5年という期間。
5年あれば何かがなんとかなりそうな気がしないだろうか。曖昧すぎて申し訳ないが、それが「5年先の世界」なのだから仕方がない。
例えば今始めたことが、5年もあれば何がしかになっていたりいなかったり。ともかくなんらかの結果に辿り着いているだろう。これは何かを始めようか迷うときに、とても軽やかに背中を押してくれる、気がする。まあ、始めてみて5年後にどうなってるか楽しみにしてみようと思えるからだ。
これが1年とか3年ではダメだ。どうしても結果を焦ってしまう。ちらっと先を考えてしまう。そうなると絶望やレールが追いついてきてしまって、ぐっと現実に引き戻されてしまう。また、10年先でも難しい。時間が途方もなさすぎる。イメージできる限界を超えていて、とても扱えるものではない。
だから5年先がいいのだ。今は思いもよらない出会いが5年もあればきっといくつかはあるだろう。始めたことが芽吹いて小さな木ぐらいには成長しているかもしれない。純粋にワクワクできるギリギリのライン、それが5年。
だからそこに向かって、私は今から種を撒けるだけ撒いてみることに決めた。いや、種まきというよりお酒をじっくり熟成していくような感覚かもしれない。これから5年寝かせるつもりで仕込んでいくのだ。
5年後、どんな美味しい未来が出来上がっているか。
今から楽しみである。
おわり
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