正当な批判であっても無視してよい

2018年3月のブログ記事を加筆修正したものです。

を読んだ。

批判の正当性と傷つく心は関係がない

 読んですぐ思い浮かびそうな「批判」は、「批判と非難は別物なのに、この記事では混同しているのではないか」じゃないだろうか。たとえば、マンガのストーリー展開の無理を理路整然と指摘する批判と、ただ「つまらん」という言葉を投げかける非難は違う。なのに、それらをひっくるめて「批判」という言葉で表現してしまうのは間違っているのではないか……という批判。

 この「批判」と「非難」の違いの指摘は、ことあるごとに目にする。実際、その差を知らしめるのは大切なことだ。

 とはいえ、その言葉を受け止める側にとってみると、そんな差は知ったこっちゃねえよ、であったりする。

 だって、どっちも自分のやったことが否定されているのは変わりはない。正当性など関係なく心は傷つきうる。むしろ単純な罵倒、「バカ」とか「くたばれ」とか言われるよりも、自分の落ち度をしらみつぶしに指摘される方が、人の心にはこたえるだろう。

 批判と非難の区別は、あくまで議論をする上で心得えておくべき分別だ。理屈でガードできないメンタル面にとってその差はあまり関係がない。これはよく混同されている気がする。罵倒はともかく「正当な批判」であれば耳を傾けるべき、という考え方はわりと一般的なのではないか。

 実際は、正当な批判であっても無視してよい。自分が傷つくのは端的な不幸であり、不幸はそれ自体がよくない未来を招きやすいからだ。だからスルーしてよい。たとえ相手が編集者であっても、原理的にはよい。

 リンク先の記事では「批判」に対する概念として「適切なフィードバック」が挙げられている。適切なフィードバックが具体的にどんなものかは無料部分を読んだだけではわからないが、続きを購入したらフィードバックの見本が読める。

 ここから先はもうリンク先の記事とはあまり関係がない。

解釈というフィードバック

 私は、適切なフィードバックとは「解釈すること」ではないかなあと思う。

 出力されたモノがどんなものなのか読解して表現する。本当はそれだけで(それだけが)適切なフィードバックたりえる。本質的には、他人がした理解を理解できることのみが他人から得られる唯一の恩恵だからだ。人によってはそこに賞賛やダメ出しといった小技が効果的なこともあるだろうが、それはあくまで応用テクにすぎない(にもかかわらず実際は逆転している)。

 この背景には、何か作っている人たちはみな、ほぼ例外なく内面で自画自賛や自己批判の嵐にさらされているという事実がある。

 マンガや映画の矛盾を指摘するような批判がある。でもたぶん、作り手はだいたいもうわかっている。言われてから「うわ、気づかなかった!」と襟を正すことなんて稀だろう。作っている方は1コマや1カットに何時間もかけて、隅々まで舐め回している。たいていの場合、至らぬ点に気づきつつも、時間的・予算的・能力的リソースに照らし合わせて妥協しているだけだ。

 嫌われるからあまり言う人はいないが、賞賛だって同じようなものだろう。気分はよくなるものの、言葉の中に適切なフィードバックが含まれている確率でいえば批判のそれを下回る。褒め言葉がプレッシャーとして働くこともある。

 つまり、ほめたりけなしたりといった受け手側の反応は、作り手の気分をいたずらに上下させる以外に創造的作用はほぼない。事実として褒められてやる気が出る人は多いけど、それは適切なフィードバックとはまた別のコミュニケーション手法だ。解釈することこそが育てるきっかけとしてはより安定してはたらくのではないか。


 ……みたいなことをよく考えているんですが、人に言ったら「なんで!? めちゃくちゃ褒められたいわ!!!!」と言われました。自分がおかしいのだと思います。

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品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)
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