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内面至上主義

A
「どうしてあの人と付き合おうと思ったの?」
「顔がよかったから」

B
「どうしてあの人と付き合おうと思ったの?」
「性格がよかったから」

AとB、どちらの答えに好感を持つだろうかと言われれば、大部分の人はBを選ぶ。一般に、顔の良さで人を判断するような態度はあまり良いものではないとされている。人が生まれ持つ選べない要素をもとに選別するのは卑しいという考え方は、わりと一般的だろうと思う。

しかしここで、少しひねくれたやつならこう考えるだろう。

 ※ ※ ※

だったら性格はどうなのか。性格は選べるものなのか。人の性格だって、その人が生まれ持ったものなのだから、外見と同じではないか。いや、顔や体型は化粧や整形によって変えることができる。それに比べれば、性格を変えるのはいかに大変なことか

「付き合ってください」
「お前、デブだからイヤだ」

と言われたのなら、まだ希望が持てるではないか。痩せれば可能性が生まれるのだから。

「付き合ってください」
「お前、性格悪いからイヤだ」

こうなったら、言われた方はどうすればいいのか。ほとんど途方に暮れるしかない。
外見至上主義者はルッキズムと呼ばれ軽蔑の対象となるが、言ってみれば性格で人を判断する内面至上主義者はパーソナリズムであって、むしろルッキズムよりも残酷である。

※ ※ ※

……みたいな。

私は何度もこういうことを思ったことがあるし、似たことを人が言っているのを耳にしたこともある。わりとよくある「常識への反論」ではないかと思う。

ところが、これを思いついた人は(自分も含め)それを言っただけで「論破」した気分になり、気が晴れてそれ以上考えることをやめてしまうようだ。

最近になって「それはちょっともったいないかもな」と思うようになってきたので、もう一歩だけ先を考えてみたい。

※ ※ ※

まず、上の反論は妥当かどうか。

こんな再反論もありえるのではないか。

「いやいやいや。それは言葉のマジックですよ。考えてみてくださいよ。容貌が悪いというのは、英語で言えば「BAD」な見た目、ということでしょう。
 でも、性格が悪いというときの悪さは、見た目とは違うじゃないですか。性格が悪いっていうのは、たとえば人の悪口を言うとか、他人を陥れるとか、そういう悪さですよね。つまり「EVIL」な性格なんですよ。日本語だと同じ「悪い」だけど、カテゴリーが違うんです。
 性格で人を選ぶ人は、善悪で言う善を選んでいる。外見は善悪とは関係ない、単なる優良さの差。それを基準にして人を選ぶのは品がないと言われても仕方がないと思いますね」

「よい」ということの意味が外見と内面で違うのだから、そこをごっちゃにするなという考えだ。
 これには、さらなる反論ができるだろう。

「いやいやいや。そんなことを話してるんじゃないんだよ、こっちは。
 たしかに、外見の場合は「良し悪し」で、性格の場合は「善し悪し」かもしれない。だけどさ、だったらどうだというんだね。
 自分が「善い人」かどうか、自分で決められないのは変わらない。当人の意思で変えられない要素を根拠に差別している事実は揺らがないじゃないか」

これにはさらにこう言える。ここからは水掛け論に近くなっていく。

「それって、とんでもないことを言っていませんか。するとあなたは、悪人が反省して更生したりすることはないって言いたいんですか? 現に更生している犯罪者はたくさんいますよ」

「確かに、更生するやつもいるだろう。しかし、しないやつもたくさんいる。でも実際にいるとかいないとかはどうでもいいんだ。大切なのは、自分が悪人だったとき、自分が更生できる悪人なのか、最後まで更生できない悪人なのかがわからない、ってことだ。
 もし自分が後者だったら、もはや善人になりようがない。それをお前は内面至上主義的に差別しているんだぞ」

「論点を先取りしていますね。その言い方だと、人が更生できるかどうかがあらかじめ決まっているということになる。まず、私はそこに同意していないのだから」

「では話を変えよう。脳を損傷した人の性格が変わることがたまにあるらしい。事故を境に温厚な善人が気性の荒い悪人に豹変してしまったというケースもある。
 彼が二度と元の性格に戻れないと医学的に証明されたとしたら、お前はこういう人を軽蔑するか?」

「しません。彼はいわば肉体的ハンディを脳に負った結果、悪人になったのであって、自らの意思でそうなっているわけではないのだから」

「それを言うなら、一般的な ――脳に特別の損傷を受けていない―― 悪人だって、自らの意思で悪くなっているわけではないのでは?」

「確かに、最初はそうかもしれないですね。でも、更生するチャンスは常にあったはずです。今日から人の悪口をやめようとか、気持ちを新たにするチャンスが。それをしなかったのは、本人の責任、本人の悪さでしょう」

「なるほどな、よくわかった。やはりお前のような人間は、「人は変われる」と素朴に信じているからこそ、変わらない奴ら(悪人/性格の悪いやつ)を無碍にできるんだな。だが、その前提が間違っていたとしたらどうなんだ。
 今の人間がそれを観測できないだけで、あらゆる人間は外的要因のみによって性格が決まるのかもしれないじゃないか。むしろもう、体も脳もモノであることは常識だ。
 転がるボウリングの玉を想像しろ。「まだ転がってる途中だが、絶対にガーターになることが決まっている軌道」というのが物理的にありえるだろう。同じことが、人の一生を俯瞰で見たときにも成立するとは考えられないのか? まだ中学生だが「物理的に」死ぬまで性格がよくならないことが決まっている人間……」

「もしそれが正しいとすると、それは私たちにも成立するのでは?」

「どういうことだ?」

「こうして反対の意見を戦わせている私たちも、俯瞰で見ると「そうなることが決まっている」ということになりますよね。内面至上主義者は内面至上主義者としての運命をただ背負い、それに反論する者も同様。だとすると、私たちのこの議論はとても虚しいものになるのでは?」

「全てが決まっているから虚しいと? それの何が問題なんだ」

「ですから、これは実は言葉の仕組みの問題なのではないでしょうか。根本的に、言葉というものは人の「自由意志」を前提しているのです。これは、実際に自由意志なるものが成り立っているかどうかとは無関係に、言葉がそういうルールのもとで運用されているという事実です。
 だから、あなたが自由意志を認めていなかったとしても、それが仮に正しかったとしても、言葉でそれを言うことはできない」

「そもそも全ては自由意志を前提したところからスタートしているから、人は善人になることが「できる」ということも前提されている。だから、性格の悪い者は顔の悪い者と比べても軽蔑するに値する……ということか。しかし、それもまたそれしか選べない事実かもしれない」

「だとしても、それは言えないのです」

「もうこれ以上は同じことの繰り返しになりそうだ」



なんか書いてるうちにすごいことになってしまったが、どうだろう。ちょっとは先に進めただろうか。

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品田遊(ダ・ヴィンチ・恐山)
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