人生の目標は"輪廻の終了"
人それぞれ、人生いろいろと、私たちはとかく自分と他人を区別したがるが、私たちは本質的に一つ(一体)である。ムカつくアイツの嫌なところは、自分が目を背けている自分の嫌な部分(短所)でもある。バカも天才も一緒。"紙一重"ではなく、同じ。バカと天才の違いなんて、そもそも論じる価値はない。両者の違いによって社会的価値や扱いが異なることに苦慮するうちは、世界は闇にしか見えないだろう。
世界中のあらゆる卑劣や残酷な出来事も、在るべくしてそうなっている。一見闇や絶望にしか見えない物事も、実はすべて希望に繋がっている。神の因果が示す正しい見地を磨くほど、世界の本質が希望に満ちていることを知り、あらゆる卑劣や残酷にも動じなくなるだろう。
どうせそのうち使い古して捨て去る"身体"に執着し、この身体を守ろう無理に長引かせようとするから、私たちはなかなか死の恐怖から卒業できない。いや、肉体の消滅が死だと思い込んでいる。"身体"はただの"服"だ。どんなに高級なブランド品(長持ちする素材)でも、100年以上はもたない。人間の身体も同じ。しかし、身体(服)が滅びても人間の生命はそれ以降も続く。
目に見えない、エビデンスを証明できないことにこそ、万物を司る真理が隠れている。目に見える、人間の知力ごときで証明できることは、そもそも論じる必然さえない。なぜなら、人間が自力で見地できるレベルのことなんて、万物全体の一ミリにも満たないからだ。そして、人間の本質は、万物の一ミリどころか、万物フル(万物ぜんぶ)で作られている。
死ぬことは、服を脱ぐようなもの。素っ裸になるからちょっと動揺するだけ。どのみちまた新しい服に着替えさせられ、記憶を一掃されたうえ、一から苦悶の人生がはじまる。が、今世で真理の獲得に努め、徳を積み上げた分だけ、次生をより好条件でスタートすることができる。
そう、今日の自分の行為は、明日や明後日や来年や十年後どころか、来世にまで繋がっている。私たちは"完全"になるまで輪廻を終われない。それぞれに降りかかる苦痛や不条理は、それぞれが"完全"になるための餌である。そうかといって、苦痛や不条理を前向きに捉えることができないといううちは、輪廻を終わることができない。否が応でも私たちはそれぞれ平等に同じ宿命を背負っている。