最近、「赤毛のアン」をみている。こんな童話みたいな平和で幼稚な綺麗ごとの極み的な世界に、変態仮面おじさんが心躍らせている様子ほど滑稽な事実はないかもしれない。いや、変態仮面で裸踊ることも、自由連想小説みたいなわけわからん芸術きどりな乱筆も、ひいては「赤毛のアン」という神様の世界を目指して、それをゴールに走り詰めている感じでもある。
『赤毛のアン』レビュー
『赤毛のアン』レビュー②
僕はまだ盲目だから、この世界が美しいことをちゃんと良くわかっていない。この世界を信じて良いことにしても、僕自身ではなく、僕が信じる人や物を通して、いわば"仮確信"しているに過ぎない。この世界は美しいこと、この世界を信じても良いこと……。それを確認させてくれる力が「赤毛のアン」にはある。
「赤毛のアン」をみながら、僕は幼い頃の自分を思い出す。草むらボーボーの空き地で友達と基地をつくって遊んだこと、何メートルも積もった雪のベッドに大の字になって、空から降ってくる雪粒をただずっと眺めていたこと、あらゆる物や場所にエロい名前やあだ名をつけてゲラゲラ笑ったこと、蜘蛛や毛虫を殺した夜に神様からの天罰を恐れて泣いたこと……それから、「ジャンクリストフ」という小説の、クリストフとゴットフリートのやり取りを思い出したりもする。
そう、芸術はもうすでにあって、作る必要はない。"私たちはただ静かにしてさえいれば良い"という、これ以上ない簡単なことがどうしてもできない。作品(形)を作りたいという欲望、自分の軌跡を残したいという自我、犯罪者と自分との間に明確な一線があるとする傲慢。
単純に、自分が好きなものを、誰に見せることなく、自分だけが見るノートにまとめるだけ……という卑しい目的(自我)を一切排除した状態になれないうちは、ゴットフリートが言うように、自分自身の力で神の声を聴くことはできないかもしれない。