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「赤毛のアン」と「ジャンクリストフ」

 最近、「赤毛のアン」をみている。こんな童話みたいな平和で幼稚な綺麗ごとの極み的な世界に、変態仮面おじさんが心躍らせている様子ほど滑稽な事実はないかもしれない。いや、変態仮面で裸踊ることも、自由連想小説みたいなわけわからん芸術きどりな乱筆も、ひいては「赤毛のアン」という神様の世界を目指して、それをゴールに走り詰めている感じでもある。

『赤毛のアン』レビュー
『赤毛のアン』レビュー②

 僕はまだ盲目だから、この世界が美しいことをちゃんと良くわかっていない。この世界を信じて良いことにしても、僕自身ではなく、僕が信じる人や物を通して、いわば"仮確信"しているに過ぎない。この世界は美しいこと、この世界を信じても良いこと……。それを確認させてくれる力が「赤毛のアン」にはある。

「赤毛のアン」をみながら、僕は幼い頃の自分を思い出す。草むらボーボーの空き地で友達と基地をつくって遊んだこと、何メートルも積もった雪のベッドに大の字になって、空から降ってくる雪粒をただずっと眺めていたこと、あらゆる物や場所にエロい名前やあだ名をつけてゲラゲラ笑ったこと、蜘蛛や毛虫を殺した夜に神様からの天罰を恐れて泣いたこと……それから、「ジャンクリストフ」という小説の、クリストフとゴットフリートのやり取りを思い出したりもする。

 突然暗い中で、ゴットフリートが歌いだした。胸の中で響くような朧(おぼろ)な弱い声で歌った。少し離れると聞こえないくらいの声だった。しかしそれには心惹かるる誠がこもっていた。声高に考えてるともいえるほどだった。あたかも透明な水を通してのように、その音楽を通して、彼の心の奥底まで読み取られる、ともいえるほどだった。クリストフはかつてそんなふうに歌われるのを聞いたことがなかった。またかつてそんな歌を聞いたことがなかった。ゆるやかな簡単な幼稚な歌であって、重々しい寂しい多少単調な足どりで、決して急ぐことなく進んでいった――長い沈黙を伴って――それからまた行方もかまわず進みだし、夜のうちに消えていった。ごく遠くからやって来るようで、どこへ行くのかわからなかった。その朗らかさの中には惑乱が満ちていた。平和な表面の下には、長い年月の苦悶が眠っていた。クリストフはもう息もつかず、身を動かすこともできないで、感動のあまり冷たくなっていた。歌が終ると、ゴットフリートの方へはい寄った。そして喉をかすらして尋ねた。
「叔父おじさん!……」
 ゴットフリートは答えなかった。
「叔父さん!」と子供はくり返して、彼の膝に両手と頤あごとをのせた。
ゴットフリートのやさしい声が言った。
「坊や……。」
「それはなんなの、叔父さん! 教えておくれよ。叔父さんが歌ったのはなんなの?」
「知らないよ。」
「なんだか言っておくれよ。」
「知らないよ。歌だよ。」
「叔父さんの歌かい。」
「おれんなもんか、馬鹿な!……古い歌だよ。」
「だれが作ったの?」
「わからないね……。」
「いつできたの?」
「わからないよ……。」
「叔父おじさんが小さい時分にかい?」
「おれが生まれる前だ、おれのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのまたお父さんが生まれる前……。この歌はいつでもあったんだ。」
「変だね!だれもそんなことを言ってくれなかったよ。」
 彼はちょっと考えた。
「叔父さん、まだ他のを知ってるかい?」
「ああ。」
「も一つ歌ってくれない?」
「なぜも一つ歌うんだ?一つでたくさんだよ。歌いたい時に、歌わなけりゃならない時に、歌うものだ。面白半分に歌っちゃいけない。」
「だって、音楽をこしらえる時には?」
「これは音楽じゃないよ。」
 子供は考えこんだ。よくわからなかった。でも彼は説明を求めはしなかった。なるほどそれは、音楽では、他の歌みたいに音楽ではなかった。彼は言った。
「叔父おじさん、叔父さんはこしらえたことがあるかい?」
「何をさ?」
「歌を。」
「歌?なあにどうしておれにできるもんか。それはこしらえられるもんじゃないよ。」
 子供はいつもの論法で言い張った。
「でも、叔父さん、一度はこしらえたに違いないよ。」
 ゴットフリートは頑として頭を振った。
「いつでもあったんだ。」
 子供は言い進んだ。
「だって、叔父さん、他のを、新しいのを、こしらえることはできないのかい?」
「なぜこしらえるんだ? もうどんなんでもあるんだ。悲しい時のもあれば、嬉うれしい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分が賤しい罪人だったから、虫けらみたいなつまらない者だったからといって、自分の身が厭になった時のもある。他人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなったときのもある。天気がいいからといって、そしていつも親切で笑いかけてくださるような神様の大空が見えるからといって、心が楽しくなった時のもある。……どんなんでも、どんなんでもあるんだよ。なんで他のをこしらえる必要があるもんか。」
「偉い人になるためにさ!」と子供は言った。彼は祖父の教訓とあどけない夢想とに頭が満されていた。
 ゴットフリートは穏かな笑いをちょっと見せた。クリストフは少しむっとして尋ねた。
「なぜ笑うんだい!」
 ゴットフリートは言った。
「ああ、おれはつまらない者さ。」
 そして子供の頭をやさしくなでながら尋ねた。
「じゃあお前は偉い人になりたいんだな。」
「そうだよ。」とクリストフは得意げに答えた。
 彼はゴットフリートからほめられることと信じていた。しかしゴットフリートはこう答え返した。
「なんのために?」
 クリストフはまごついた。考えてから言った。
「りっぱな歌をこしらえるためだよ!」
 ゴットフリートはまた笑った。そして言った。
「偉い人になるために歌をこしらえたいんだね、そして歌をこしらえるために偉い人になりたいんだね。お前は、尻尾を追っかけてぐるぐる回ってる犬みたいだ。」
 クリストフはひどく癪にさわった。他の時なら、いつも嘲弄している叔父からあべこべに嘲弄されるのに、我慢ができなかったかもしれない。そしてまた同時に、理屈で自分を困らすほどゴットフリートが利口であろうとは、かつて思いも寄らないことだった。彼はやり返してやるべき議論か悪口かを考えたが、何も見当たらなかった。ゴットフリートはつづけて言った。
「おまえがもし、ここからコブレンツまでもあるほど偉大な人になったにしろ、たった一つの歌もとうていできやすまい。」
 クリストフはむっとした。
「もしこしらえたいと思ったら!……」
「思えば思うほどできないもんだ。歌をこしらえるには、あのとおりでなけりゃいけない。お聴きよ……。」
 月は、野の向うに、丸く輝いてのぼっていた。銀色の靄もやが、地面に低く、また鏡のような水の上に、漂っていた。蛙が語り合っていた。牧場の中には、がまの鳴く笛の音の旋律メロディが聞こえていた。こおろぎの鋭い顫音トレモロは、星の閃に答えてるかと思われた。風は静かに、はんの木の枝を戦そよがしていた。河の上方の丘から、鶯のか弱い歌がおりてきた。
「何を歌う必要があるのか?」とゴットフリートは長い沈黙の後にほっと息をして言った――(自分自身に向かって言ってるのかクリストフに向かって言ってるのかわからなかった)――「お前がどんなものをこしらえようと、あれらの方がいっそうりっぱに歌ってるじゃないか。」
 クリストフは幾度もそれら夜の音を聞いていた。しかしかつてこんなふうに聞いたことはなかった。ほんとうだ、何を人は歌う必要があるのか?……彼は心がやさしみと悲しみとでいっぱいになってくるのを感じた。牧場を、河を、空を、親しい星を、胸にかき抱きたかった。そして彼は叔父ゴットフリートにたいする愛情に浸された。今は皆のうちで、ゴットフリートがいちばん良く、いちばん賢く、いちばん立派に思われた。いかに彼を見誤っていたかを考えた。自分に見誤られたために叔父は悲しんでいると考えた。彼は後悔の念でいっぱいになった。こう叫びたい気がした。「叔父さん、もう悲しんではいやだ!もう意地悪はしないよ。許しておくれよ。僕は叔父さんが大好きだ!」しかし彼はあえて言い得なかった。――そしていきなり、彼はゴットフリートの腕に身を投げた。しかし文句が出なかった。彼はただくり返した。「ぼくは叔父さんが大好きだ!」そして心こめてひしと抱きしめた。ゴットフリートは驚きまた感動して、「なんだ?なんだ?」とくり返し、同じく彼を抱きしめた。――それから、彼は立ち上がり、子供の手を取り、そして言った、「帰らなけりゃならない。」クリストフは叔父から理解されなかったのではないかしらと、また悲しい気持になった。しかし二人が家に着いた時、ゴットフリートは彼に言った。「もしよかったら、また晩に、神様の音楽をききにいっしょに行こう。また他の歌も歌ってあげよう。」そしてクリストフは、感謝の念にいっぱいになって、別れの挨拶あいさつをしながら彼を抱擁した時、叔父が理解してくれてることをよく見てとった。
 それ以来、二人は夕方、しばしばいっしょに散歩に出かけた。彼らは河に沿ったり野を横切ったりして、黙って歩いた。ゴットフリートはゆるやかにパイプをくゆらしていた。クリストフは少し影におびえて、彼に手を引かれていた。彼らは草の中にすわった。しばらく沈黙の後、ゴットフリートは星や雲のことを話してくれた。土や空気や水の息吹、また飛んだり這ったり跳ねたり泳いだりしてる、暗闇の中でうよめく小世界の生物の、歌や叫びや音、また雨や天気の前兆、また夜の交響曲シンフォニーの無数の楽器、それらのものを一々聞き分けることを教えてくれた。時とすると、悲しい節や楽しい節を歌ってくれた。しかしそれはいつも同じ種類のものであった。クリストフはそれをきいていつも同じ切なさを感じた。ゴットフリートは決して一晩に一つの歌きり歌わなかった。頼まれても快く歌わないことを、クリストフは知っていた。歌いたい時自然に出てくるのでなければならなかった。黙って長い間待っていなければならないことが多かった。そして「もう今晩は歌わないんだろう……」とクリストフが考えてる時に、ゴットフリートは歌い出すのだった。
 ある晩、ゴットフリートが確かに歌ってくれそうもない時、クリストフは自作の小曲を一つ彼に示そうと思いついた。作るのにたいへん骨折ったものであり、得意になってるものであった。自分がいかに芸術家であるかを見せつけたかった。ゴットフリートは静かに耳を傾けた。それから言った。
「実にまずいね、気の毒だが。」
 クリストフは面目を失って、答うべき言葉も見出さなかった。ゴットフリートは憐れむように言った。
「どうしてそんなものをこしらえたんだい。いかにもまずい。だれもそんなものをこしらえろとは言わなかったろうにね。」
 クリストフは憤りのあまり真赤になって言い逆った。
「お祖父さんはぼくの音楽をたいへんいいと思ってるよ。」と彼は叫んだ。
「ああ!」とゴットフリートは平気で言った、「そりゃもっともに違いない。あの人はたいへん学者だ。音楽に通じてる。ところがおれは音楽をよく知らないんだ。」
 そしてちょっと間をおいて言った。
「だがおれは、たいへんまずいと思う。」
 彼は穏かにクリストフを眺め、その不機嫌ふきげんな顔を見、微笑ほほえんで言った。
「他ほかにもこしらえた節ふしがあるかい。今のより他のものの方がおれには気に入るかもしれない。」
 クリストフは他の節が最初のものの印象を実際消してくれるかもしれないと考えた。そしてあるたけ歌った。ゴットフリートはなんとも言わなかった。彼はおしまいになるのを待っていた。それから、頭を振って、深い自信ある調子で言った。
「なおまずい。」
 クリストフは唇をくいしめた。頤あごが震えていた。泣き出したくなっていた。ゴットフリートは自分でもまごついてるように言い張った。「実にまずい!」
 クリストフは涙声で叫んだ。
「では、どうしてまずいというんだい?」
 ゴットフリートは正直な眼付で彼を眺めた。
「どうしてって?……おれにはわからない……お待ちよ……実際まずい……第一、馬鹿げてるから……そうだ、そのとおりだ……馬鹿げてる、なんの意味もなさない……そこだ。それを書いた時、お前は何もいうべきことをもっていなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?」
「知らないよ。」とクリストフは悲しい声で言った。「美しい楽曲を書きたかったんだよ。」
「それだ。お前は書くために書いたんだ。偉い音楽家になるために、人からほめられたいために、書いたんだ。お前は高慢だった、お前は嘘をついた、それで罰を受けたんだ……そこだ!音楽では、高慢になって嘘をつけば、いつでも罰を受ける。音楽は謙遜で誠実であることを望む。もしそうでなかったら、音楽はなんだろう?神様にたいする不信だ、冒涜だ、正直な真実なことをいうために美しい歌をわれわれに贈ってくだすった神様にたいしてね。」
 彼は子供の悲しみに気がついて、抱擁してやろうとした。しかしクリストフは怒って横を向いた。そしていく日も不機嫌な顔を見せた。彼はゴットフリートを憎んでいた。――しかし、「あいつは馬鹿だ、何を知るもんか! ずっと賢いお祖父さんが、僕の音楽を素敵だと言ってるんだ」といくらみずからくり返しても甲斐がなかった。――心の底では、叔父の方が道理だと彼は知っていた。そしてゴットフリートの言葉は彼のうちに刻み込まれていた。彼は嘘をついたのが恥ずかしかった。
 それで、彼はしつこく恨みを含んでいたものの、音楽を書く時には、今やいつでも叔父のことを考えていた。そしてしばしば、ゴットフリートにどう思われるだろうかと考えると恥ずかしくなって、書いてしまったものを引裂くこともあった。そういう気持を押しきって、全然誠実ではないとわかってるある節を書く時には、注意深く叔父に隠していた。彼は叔父の判断をびくびくしていた。そしてゴットフリートが、「さほどまずくはない……気に入った……」と、ただそれだけ楽曲の一つについて言ってくれると、彼は嬉しくてたまらなかった。
 また時には、意趣返しに、大音楽家の曲調を自分のだと偽って、たちの悪い悪戯いたずらをやることもあった。そしてゴットフリートがたまたまそれをけなすと、彼は小躍こおどりして喜んだ。しかしゴットフリートはまごつかなかった。クリストフが手をたたいてまわりを喜んではね回るのを見ながら、彼は人のよさそうに笑っていた。そしていつも例の持論に立ちもどった。「それはよく書いてあるかもしれない、しかしなんの意味ももってはいない。」――かつて彼は家で催される小演奏会に臨席するのを好まなかった。楽曲がいかほどりっぱであろうと、彼は欠伸をやりだして、退屈でぼんやりしたふうをしていた。やがて辛抱できないで、こっそり逃げ出した。彼はいつも言っていた。
「ねえ、坊や、お前が家の中で書くものは、みんな音楽じゃない。家の中の音楽は、室内の太陽と同じだ。音楽は家の外にあるのだ、神様のさわやかな貴い空気を少しお前が呼吸する時にね。」
 彼はいつも神様のことを口にのぼせていた。彼は二人のクラフトと違って、きわめて信仰深かった。二人のクラフト、父と子とは、金曜日の斎日に肉食することを注意して避けながらも、神を恐れない者だと自任していたのである。

青空文庫:「ジャン・クリストフ」

 そう、芸術はもうすでにあって、作る必要はない。"私たちはただ静かにしてさえいれば良い"という、これ以上ない簡単なことがどうしてもできない。作品(形)を作りたいという欲望、自分の軌跡を残したいという自我、犯罪者と自分との間に明確な一線があるとする傲慢。

 単純に、自分が好きなものを、誰に見せることなく、自分だけが見るノートにまとめるだけ……という卑しい目的(自我)を一切排除した状態になれないうちは、ゴットフリートが言うように、自分自身の力で神の声を聴くことはできないかもしれない。

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