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希望のハコ 最愛の娘になった最愛の君へ 第二話

 仏壇に炊き立てのご飯とお水、そして焙じ茶を備え線香を立てる。
 白い煙が揺らめきながら昇り、ストローで吸われるように仏壇の奥に入り込んでいく。
 カギがおりんを鳴らそうとするとハコが「ハコがやるの」と言って奪い取り、盛大に鳴らす。
 カギは、苦笑しながらも仏壇に手を合わせる。
 ハコもカギを見て、お鈴を持ったまま手を合わせる。
 目を開けると仏壇の上に置かれた遺影が入り込んでくる。
 銀を磨いたような柔らかく光る白髪のスーツを着た女性、深い年輪こそ刻まれているがその顔はとても美しく、そしてどことなくハコに似ていた。
 三年前に亡くなったハコの祖母だ。
 七十代の後半を迎えるか迎えないかで亡くなったはずだが写真に映る祖母は実年齢よりも十は若く見える。
 美魔女といえばそれまでだが年を取ってる暇がなかったと言うのが本当のところだろう。
 ハコが行方不明になってからも、そして戻ってきてからも彼女はきっと心が休まることなんて一度もなかったはずだから。
 カギの脳裏に生前の祖母との会話が蘇る。
 それはカギがカーマ教に乗り込んでハコを救出してから三ヶ月後、刑務所での面会室でのことだった。

「解離性健忘?」
 聞いたこともない言葉にカギは眉を顰める。
 警察病院の医師たちによる懸命の治療のお陰でほとんど傷も癒え、後遺症こそなかったがまだ顔面には縫った跡が痛々しく残り、顔を動かすと引き攣るような感覚が残る。
「ええっ」
 分厚いアクリル板の向こうでハコの祖母は力なく頷いた。
精神的外傷トラウマにおける記憶障害……俗に言う記憶喪失よ」
 ハコの祖母に会ったのは何年ぶりだろう?
 十五歳の時にハコが奴らに拉致されて、その一年後に自分が反社会勢力団体……一般的に極道と呼ばれる道に入った時だったはずだから六年……いや七年振りだろうか?
 久々に見たハコの祖母は、少し痩せはしたが見た目自体はそんなに変わっていないように思う。
 銀色に輝く白髪、曲がることを知らないような伸びた背筋、皺のないフォーマルスーツ、そしてどこかハコに似た顔立ち、鼻に繋がれた管がなければ記憶との相違なんてほとんどないだろう。
「間質性肺炎よ」
 管を見られていることに気づいたハコの祖母は表情一つ変えずに言う。
「間質と呼ばれる部分が炎症を起こして固くなってるの。酸素を送ってもらわないと家の中すら移動できないわ。健康に留意してお酒も煙草も一度もやったことないのに……昨今謳われてる介護予防って何の意味があるのかしらね」
 そう言って皮肉っぽく笑う。
「そうは言っても気を付けなさい。若いからって油断しちゃダメよ」
 本当の祖母のような小言を言い出すハコの祖母にカギは「はあっ」と答えるも正直どうでもいい。
 そんなことより気になるのは……。
 カギは、ハコの祖母の後ろを見る。
 ハコの祖母もそれに気づいて振り返る。
 面会室の入り口のところでアニメキャラの描かれたレジャーシートを敷いて同じアニメキャラのぬいぐるみやブロックで遊んでいる女の子がいた。若い女の刑務官が女の子に付き合って一緒に遊んでくれている。
 女の子と身長も体型も同じくらいの若い大人の女の刑務官が。
「ハコ……」
 カギは、小さく呟き、唇を噛む。
 女の子はハコだった。
 カギと同じ二十三歳のハコが肩まである髪を二つ結びのお下げにし、小さい女の子が着るような大きな白い猫のプリントされたシャツと水玉のピンクのスカートにピンクの靴を履いて楽しそうにおままごとをしている。
 奴らに傷だらけにされた顔はすっかり癒えて少し大人びたもののカギの記憶にあるハコそのモノなのにその表情は……二歳の幼子のようにあどけなかった。
 ハコは、お気に入りなのであろうぬいぐるみをブンブン振り回して刑務官に迫り、刑務官は少し困り顔しながらもよく付き合ってくれていた。
「ハコに奴らに拉致された頃の記憶はないわ」
 ハコの祖母は、表情一つ変えずに言う。しかし、膝に置いた細い拳をぎゅっと握りしめているのをカギは見逃さなかった。
「それどころか生まれてから今日までの記憶も、体験したことも、学んできたことも全て忘れてしまった。言葉だって簡単なものしか話せない。まさに幼児に戻ってしまったの」
 この感情を何と表現したらいいのだろう?
 辛い?
 悲しい?
 痛い?
 どんな言葉もどんな表現も今のカギの心境を捉えることなんて出来はしない。
 カギは、ハコに向かって震える手を伸ばす。
 しかし、その手は分厚いアクリル板で阻まれ、触れるどころか近づくことすら出来ない。
 ハコの祖母は、伸ばされかけたカギの手を見て、そしてカギの顔を見る。
「鍵本義一君」
 ハコの祖母は、カギの本名を一語も間違えずに口にする。
「今日、訪れたのはただ面会に来た訳でも近況を話に来た訳でもない。分かってますね?」
 カギは、小さく頷く。
 カギの面会には謁見禁止命令が出ており、親族でも立ち会うことが許されていない。
 それが許されるのは……。
「おばあさんが俺の弁護士になってくれたってことですよね」
 ハコの祖母は頷く。
 ハコの祖母は弁護士。
 そしてカーマ教の被害者団体の顧問弁護士もしている。
 奴らによって大切な家族を奪われ、人生を狂わされ、そして尊厳を踏み躙られ、命すらも奪われた人たちを救うために活動していた。
 そしてその活動が皮肉にも自らの大切な家族を奪われ、傷つけられ、戻ってきてからも絶望に追いやられる結果になるなんて誰が思うだろうか?
「貴方は私達の念願であり、希望であるカーマ教を追い詰め、解体させることに一役も二役も買ってくれた。それだけでも大変な恩義だと言うのに……貴方はハコまで救ってくれた……」
 祖母は、目を強く萎め、唇を噛んで頭を下げる。
「本当に感謝しております。生きているうちにハコに再会できるなんて夢にも思いませんでした。本当にありがとう」
 カギは、彼女の下げられた頭の旋毛が震えるのを見る。
 酸素の流れる音と共に鼻を啜る音が聞こえる。
 幼い頃、ハコの家に遊びに行く度に凛とした姿勢で自分たちを見下ろし、教師よりも強い、思わず謝りたくなるような圧を発していたハコの祖母の肩が小さく震えていた。
 彼女もずっと痛みを感じていたのだ。
 ハコがいなくなったのは自分のせいだ、と。
 彼女もずっと望んでいたのだ。
 ハコが帰ってくることを……。
 それなのに……。
 ハコの祖母は、顔を上げる。
 そこには泣いた跡の欠片のみが残っていた。
「貴方のやったことは世間から見れば犯罪、しかし私達にとっては救済です」
 ハコの祖母の目が強く細まる。
「私を始め被害者団体で司法と世論に訴え、無罪は無理なまでも減刑が取れるよう闘う所存です」
 減刑……。
 そんなこと考えもしなかった。
 ハコを救った後はずっとブタ箱の中でもなんなら死刑でも構わないとえ思っていたから。
 そして次にハコの祖母が発した言葉にカギは衝撃を受ける。
「そして減刑でき、出所出来たら……ハコの面倒を見て欲しい」
 カギの鋭い目が大きく見開く。
 ハコの祖母は自分の胸に手を当てる。
「私もいつまで動けるか分からない。ハコのことを見てあげられるか分からない……」
 ハコの祖母がカギを見る。
 目が潤み、大きく震える。
「貴方なら……ハコを任せられる……」
 それは弁護士でも厳格な女性のものでもなく、大切な孫を憂う祖母の……親の目だった。
「お願いよ……カギ君」
 ハコの祖母は、静かに心の底からカギに懇願する。
 自分はその問いに答える資格なんてない。
 ここから出られる保障もなければハコの面倒を見ることだって出来るか分からない。
 カギの目に奥で刑務官と嬉しそうに遊ぶハコの姿が見える。
 ハコがこちらを見る。
 目が合う。
 ハコは、にこっと大きな笑みを浮かべる。

 カギ……。

 あの頃のハコの声が頭の中に響く。
「わ……」
 カギは、小さく口を開く。
「分かりました……」

「ハコは……今日も元気ですよ」
 カギは、そう言って口元に笑みを浮かべる。
「ほら、ハコもちゃんとおばあちゃんに挨拶しろ」
 そう言って隣に座って南無南無言っているハコの肩を優しく叩く。
 ハコは、目をぱっちりと開けて祖母の遺影を見る。
「おばあちゃん!」
 ハコは、満面の笑みを浮かべて大きく口を開く。
「今日もハコは元気です!」
 大声で叫び、手に持ったお鈴をマラカスのように鳴らす。
「こらっ!」
 カギが怒るとハコは笑いながら逃げていく。
 その後ろを猫たちが追いかける。
「まったく……」
 カギは、肩を竦めて息を吐き、仏壇に向かってもう一度手を合わせる。
「ちょっと元気すぎですけどね」
 カギが言うと写真の祖母が嬉しそうに笑ったように見えた。

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