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看取り人 エピソード5 失恋(7)

 白髪の男の姿を見つけると先輩はまた泣きそうになった。
 彼は、いつものベンチに座り、いつものようにバインダーに向き合い、先輩が来たことが分かるといつものように優しい笑みを浮かべて手を振った。
 先輩は、涙を押し込め、笑みを浮かべて小さく手を振る。
「今日も時間通りだね」
「おじさんも」
 先輩は、何も言わずに白髪の男の左隣りに座る。
 そこで先輩は白髪の男の顔が昨日よりも白いことに気づいた。目も窪んでおり、唇もカサついており、呼吸も昨日より浅いような気がする。
「おじさん……具合悪いですか?」
「少し風邪を拗らせてしまったみたいでね。大したことないよ」
 白髪の男は、小さく笑う。
 その笑みもどこか力がない。
「それよりも……手紙……書かないのかい?」
 白髪の男は、座ってもバインダーを飛び出さない先輩を怪訝そうに見る。
 先輩は、視線をスクールバッグに向け、そして戻す。
「もういいんです。伝えたいこと……無くなっちゃったんです」
 白髪の男は、眉を顰める。
「それは……もう彼に言葉で伝えたということなのかな?」
 白髪の男の言葉に先輩は少し躊躇ためらいながらも頷く。
「彼は……なんて?」
「……何も……。私が一方的に話して、さようならしてきました」
 そう言って先輩は小さく笑う。
「……いいのかい?」
「はいっ。もうスッキリしました」
「……そうか……」
 白髪の男は、小さく息を吐き、小さく微笑む。
「君がそう選んだなら……もう何も言わないよ」
「お世話をおかけしました」
 先輩は、頭を下げる。
「頑張ったね」
 白髪の男は、手を伸ばして優しく先輩の頭を撫でる。
 冷たい……とても冷たい。
 先輩は、切長の右目を震わせる。
 白髪の男は、優しく目を細める。
「それじゃあ、君はやることが無くなった訳だけどどうするのかな?」
「……良かったら見ていてもいいですか?おじさんが手紙を書くのを……」
「もちろんだよ。むしろ嬉しい」
 白髪の男は、先輩の頭から手を下ろし、バインダーを力なく持ち上げる。
「実は今日……手紙を書き上げないといけなくなったんだ」
「今日?」
 先輩は、切長の右目を丸くする。
「なんで……そんな?」
「深い意味はないよ」
 白髪の男は、小さく笑う。
「昨日も言ったけど……時間は有限。ただそれだけさ」
 小さく、力なく言葉にする白髪の男は何故か年齢よりも年老い、儚く見えた。
「君が側にいてくれたら……書けそうな気がするんだ。付き合ってくれるかな?」
「……はいっ」
 先輩が頷くと白髪の男は安心したように笑い、万年筆を手に取ってバインダーに挟んだ便箋に向いた。
 先輩は、何も言わずじっと白髪の男を見守った。
 白髪の男は、便箋に万年筆の先を付ける。
 押し付けられたペン先から黒いインクが沈むように滲み出る。
「僕はね。罪を犯したんだ」
 白髪の男の突然の告白に先輩は切長の右目を震わせる。
 白髪の男は、万年筆のペン先を便箋の上を歩むように進ませる。
「その時、僕は大学三年生で……一年留年してたので二十歳を超えていた。僕は……焦っていた」
「焦っていた?」
 先輩は、首を傾げる。
「君は、性に興味はあるかい?」
 白髪の男の質問に先輩の顔は一瞬で真っ赤になる。
「それは……そそそ……れれられ」
 先輩は、動揺しすぎて言葉も舌も回らなくなる。
 その様子を横目で見て白髪の男は小さく笑う。
「恥ずかしがることはないよ。若者の当然の欲求さ」
 先輩は、恥ずかしさのあまり白髪の男の顔を見ることが出来ない。
 白髪の男は、万年筆をゆっくりと動かしながら話しを続ける。
「その頃の僕も若者らしく性欲の塊だった。授業やバイトの時以外は四六時中いやらしいことばかり考えていたよ」
 先輩は、白髪の男の言葉が信じられなかった。
 目の前にいる男はとても優しく、儚げで、どこか達観していて、とてもそんな俗物とは結びつかなかった。
「で、話しは戻るけど僕は焦ってたんだ」
「何に……ですか?」
 先輩は、恐る恐る訊く。
「童貞であることにだよ」
「ふえっ?」
 先輩は、空気が抜けるような間抜けだ声を上げる。
 白髪の男は、先輩の反応が面白くて、可愛くて思わず口元を緩ませながら、万年筆を動かす。
「僕は、性欲の塊だった。四六時中いやらしいことばかり考えていた。だけどまったく僕は女の子にモテなかった。周りが彼女だ、卒業したら結婚だと叫んでいる中、僕は女の子と手を握ったこともなかったんだ」
 先輩は、白髪の男の言葉を信じられなかった。
 こんなに優しく、見ず知らずの自分のことを受け止め、受け入れてくれるような包容力のある人がモテないなんてあるのだろうか?
「若いうちはね。内面よりも外見や持っている能力に惹かれるものなんだよ。強い者に、美しい者に抱かれたい。生き物のさがだね」
 そうなのだろうか?
 少なくても自分はそんなこと思ったこともなかった。
 自分が彼に惹かれたのは外見でも能力でもなく、暗い帷のようなものの奥に隠された圧倒的な優しさと強さだ。
 見かけとか能力なんて生優しいものじゃ決してない。
 白髪の男は、先輩を横目で見て笑う。
「自分はそんなことない……って顔だね」
「いえ、そんな……」
 先輩は、慌てて誤魔化す。
「恥ずかしがることはない。君の価値観は素晴らしいものだよ。誇るといい。でもね……」
 白髪の男の顔から笑みが消え、視線が便箋に戻る。
「世の中の人間というのは大半が俗物なんだ。僕みたいにね。欲を払うことが出来ない愚か者なんだ。だから……罪を犯してしまう」
 白髪の男の目が細まる。
 呼吸が荒くなる。
「僕はね。童貞を捨てたかった。溜まりに溜まった欲求を吐き出したかった。だから僕は……彼女を買った」
 先輩の切長の右目が震える。
 男は、万年筆を動かす。
 ペン先からインクが滲み漏れ、便箋が削れるような音を立てる。
「僕は、ここから少し離れた小さな町に住んでいた。大学もその近辺だった。その町にはね。誰とでも寝てくれるっていう噂の女が住んでいたんだ」
 白髪の男の言葉に先輩は切長のを右目を剥く。
「その女は町の出身ではなく、どこか別の所から流れてきたらしい。いつの間にか小さな町でも吹き溜まりと呼ばれるキャバクラで働いていて。金を払えばどんな男とも寝た」
 万年筆は、音を立てて進む。その度に震えるような文字が便箋に刻まれる。
「彼女は、とても美しかった。小さな町には似つかわしくない、垢抜けた雰囲気、吸い込まれるような黒髪、日に当たることを拒むような白い肌、窶れているのに色気漂う滑らかな肢体、その全てが小さな町の男達を虜にし、狂わせた。同級生で彼女に筆おろしをしてもらったと話すのも一人や二人じゃなかった。僕も……その一人だった」
 白髪の男の窪んだ目に熱が灯る。
 その瞳に浮かぶのは便箋に刻まれた文字と、ここにはいない欲情の対象であった。
 先輩は、思わず身を固くする。
「最初はね。僕も彼女で筆おろしをする気なんてなかったんだ。正直、金で身体を売るというのに抵抗もあったし、軽蔑していた。何より男って生き物は時に女性よりも貞操というものを大切にする。初めてはやはり大好きな人としたい。そう思っていた。だけど……」
 白髪の男は、万年筆を止め、目を閉じる。

 それは雨の日のこと。
 大学での講義を終え、バイト先に向かって急ぐ若い白髪の男の前に彼女は現れた。
 いや、現れたのではく、彼が彼女のいた場所に偶然やってきただけだが、その時の彼には彼女が突然、空から降ってきたように見えた。
 それくらい……彼女は美しかった。
 彼女は、どこかに捨てられていたのか?白い猫をきゅっと抱きしめていた。
 雨の中、傘も差さず、客を寄せ付けるための薄いドレスはびしょ濡れになって体の膨らみと線がくっきり浮き出させている。吸い込まれるような黒い髪は卵形の白い顔に張り付き、切長の両目で愛おしげに白い猫を見ていた。
 まるで何かを思い出すように、悲しげにじっと……じっと見ていた。
 白髪の男は、思わず彼女に近寄り、傘を差し伸べた。
 そして驚く彼女と一緒に何も言葉を交わすことなく彼女の部屋に行き……狂おしいほど寝た。

「彼女に会ったのは後にも先にもそれきりだよ」
 白髪の男は、万年筆を動かす。
「何回も混じり合い、泥水のように眠りにつき、目が覚めたらもう彼女はいなかった。保護したはずの白い猫もいなかった。あったのは小さなおにぎりが二つと鍵は閉めなくていいから、という書き置きだけだった」
 白髪の男は、言い終えてから恥ずかしそうに笑って先輩を見る。
「若い子には聞き苦しい内容だったよね。ごめんね」
「いえ……そんな……」
 先輩は、身を小さくして言う。
 正直、なんと言っていいか分からなかった。異性の、しかもあまりに生々しい欲望に塗れた性欲の話しに先輩の頭の中は小さなパニックを起こしていた。
 しかし、そんな中でも小さな疑問が生まれる。
 先輩は、切長の右目を白髪の男に向け、口を開く。
「その手紙は……その女の人に向けたもの何ですか?」
 先輩は、おずおずと口にしながらもその質問は間違っていることに気づいていた。
 彼は、昨日の別れ際にはっきりと言った。
 この手紙は会ったこともない誰かに渡すための物だ、と。
 手紙の受け取り主が会ったことのある彼女であるはずがないのだ。
 では、誰に?
 白髪の男は、視線を便箋に戻し、万年筆をゆっくりと動かす。
「さっき言ったように彼女とは一夜を共にしてから一度も会っていない。時たま客引きをしている彼女を遠目から見かけることはあったけどそれだけだ。あの雨の日に感じた欲情が湧き起こることもなく、もう一度抱きたい、話したいとも思わなかった。ただただ、町の中の一つの風景として彼女を見ていた」
 男は、苦しげに小さく息を吐く。
「そんなことが一年も続き、僕は大学を卒業し、この町の企業に就職し、地元の小さな町を離れた。彼女とはそれきり。会いたいだなんて今も思わない」
「それじゃあ……一体……?」
 手紙を送りたい相手って……?
「この町で働いてから八年が過ぎた頃、一つの事件が僕の耳に入った。彼女が事件を起こして逮捕されたこと。そして……彼女に子どもがいたと言うことが」
「子ども?」
 切長の右目が大きく見開く。
 白髪の男の呼吸が荒くなり、万年筆を持つ手が大きく震える。
「彼女は……結婚してなかった。つまりその子は彼女が寝た不特定多数の男との間の子で……保護された時、推定年齢で八歳だった」
 万年筆のペン先が震え、インクが便箋に広がり、染み込んでいく。
 先輩は、小さく唾を飲み込む。
 彼女の頭にも一つの答えが浮かんだから。
「八歳の子ども……僕が彼女と関係を持ったのは町を出る一年前だからちょうど九年前。つまり……その子の父親は……僕だ」
 万年筆が便箋を突き破り、木製のバインダーに突き刺さる。インクが流れ、蛇のような筋となって便箋の上を走り、男の足を濡らしていく。
 先輩は、思わず男に寄ろうとするが、男は、インクに汚れた手でそれを制する。
「君が汚れちゃうから。大丈夫だよ」
 そう答える白髪の男の顔にはいつもの優しい笑みが浮かんでいた。
 その顔は……先ほどよりも白く、力がなかった。
「おじさん……少し休んだら……」
「もうすぐ書き終わる。それに……もう時間がない」
 時間がない?
「それはどういう……」
 しかし、先輩の疑問に答えることなく、インクで汚れた便箋に向き直り、万年筆を握り直す。
「僕は……すぐに地元の警察に連絡し、自分がその子の父親かもしれない。会わせて欲しいと伝えた。しかし、当然だけど警察は取り合ってくれなかった。個人情報もあるし、僕の言葉はあまりに不審だ。信用なんて出来るはずもない」
 白髪の男は、苦しげに浅い呼吸を繰り返しながら話す。
 万年筆が震え、一文字書くたびに命を削るような音を立てる。
 先輩は、白髪の男に手を伸ばしたいのに……出来ない。
 彼から溢れる気迫がそれを拒否していた。
「それでも僕は諦めきれなかった。有り金を叩いて興信所に依頼し、子どもを探し出した」
 切長の右目がバインダーに挟まれた封筒に向く。
「僕は、子どもに会いに行った。子どもを引き取ったと言う女性に頭を下げ、会わせて欲しいと懇願した。門前払いを食らったよ。これ以上あの子を苦しめるな!恥をしれ!と罵られたよ。当然だ。今の今まで知らぬ存ぜぬだった癖にいきなり現れて合わせろなんてどの口が言うのかと自分でも思う……でも」
 白髪の男はの目から力なく、涙が流れる。
 呼吸が痛々しく荒くなり、全身が震えだす。
 しかし、白髪の男は万年筆を離すことなく、便箋に文字を書き込む。
「僕は……子どもの顔を知らない。名前も知らなければ性別すら知らない。でも、そんなのは……関係ない」
 万年筆が動く。
 インクが滲み、染み込みながら文字を刻む。
「僕は、伝えたいんだ。彼に……彼女に……愛してるって。君が生まれてきたのは不幸なことじゃない。君は……幸せになるために生まれてきたんだって。例え会えなくても、顔すらも分からなくても僕は君を愛してる。君の幸せを切に願っている。例え世界中の人間が君を嫌っても、捨てても、僕は絶対に離れない。ずっと……ずっと……魂になろうと君を見守り続ける……だから……どうか」
 万年筆の文字と言葉が同時に重なる。
「幸せに」
 万年筆の動きが止まる。
 白髪の男の言葉も止む。
 先輩の切長の右目から涙が溢れる。
 白髪の男の手に握られたバインダー、それに挟まれた便箋。
 最後に書かれた"幸せに"という言葉以外はインクが滲み、汚れてとても読めたものではない。
 しかし、これは手紙だ。
 これ以上の手紙なんて……この世に存在するはずがない。
「お疲れ様でした。おじさん」
 先輩は、そっと白髪の男の肩に手を置く。
「ようやく手紙が書けましたね。おめでとうございます」
 先輩は、小さく笑みを浮かべる。
 しかし、白髪の男に反応はない。
「万年筆のインクが溢れちゃったね。今度、一緒に清書しましょうか。私も付き合います。そしたら……渡しにいきましょう。その子もきっと受け取ってくれるから」
 しかし、白髪の男からは反応がない。
「おじさん?おじ……」
 先輩は、白髪の男の顔を望み込み……絶句する。
 白髪の男は、半目に小刻みに震え、口から泡のようなものを吹き出していた。
 それは……まるで……死んでいるかのような。
「いやああああ!」
 先輩の口から絶叫が迸る。
「いやだ!おじさん!おじさん!」
 先輩は、白髪の男を揺さぶる。
 しかし、男に反応はない。
 先輩は、おじさん、おじさん、と叫びながら必死に白髪の男に呼びかける。
 異変に気づいた周りが二人に駆け寄り、声をかけ、救急車の手配を始める。
 しかし、先輩はそんな周囲の声も耳に入らなければ、動きも目に入らない。
 必死に……必死に……白髪の男に呼びかける。
 いやだ!
 死なないで!
 いなくならないで!
 私を……私を一人にしないで!
「おじさん!おじさん!おじさん‼︎」
 先輩は、泣きじゃくり、叫んだ。
「先輩」
 先輩の肩に温かい温もりが優しく落ちてくる。
「先輩……大丈夫ですよ。落ち着いてください」
 耳に入ってくる抑揚のない、しかし心地よい声。
 取り乱していた先輩の心がゆっくりと静まっていく。
 先輩は、涙に濡れた切長の右目で声の主を見る。
 三白眼の綺麗な目がこちらを見ている。
「君……」
「もう大丈夫ですよ」
 彼……看取り人は、抑揚のない声と乏しい表情で告げる。
 そして意識のない白髪の男の前に跪く。
「探しましたよ」
 看取り人は、白髪の男の顔をじっと見る。
 そして言う。
「僕は看取り人です」
 看取り人の発した言葉に先輩の切長の右目が大きく見開く。
「貴方と最後の時を過ごす為に参りました」

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