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希望のハコ 最愛の娘になった最愛の君へ 第二十六話

 波の音がこんなに物悲しく聞こえたのは初めてかもしれない。
 カギは、足元を侵食してくる小波さざなみを見ながらそう思った。
 カギの前を歩くハコは、靴を両手に持って小波の冷たい感触を楽しんでいる。
 彼女の歩いた足跡を小波が静かに消していく。
 その度にカギは止めてくれっと心の中で叫ぶ。
 ハコは、歩みを止めて振り返る。
 嬉しそうににっこりと微笑む。
「ようやく……来れたね」
「……そうだな」
 カギは、小さく唇を釣り上げる。
「あの日から……随分と時間が掛かっちまったな」
 カギは、血に濡れた右手の人差し指で頬を掻く。
 それを見てハコは、顔を小さく顰める。
「痛く……ないの?」
「痛みなんて……とっくに慣れたよ」
 そう言って小さく笑う。
 そう……身体の痛みなんてどうでもいい。
 心の痛みに比べたら身体の痛みなんて注射みたいなもの……その時だけだ。
 そしてこれから来るであろう痛みに比べればこんな痛みものなんて……。
「そう……」
 ハコは、カギの血に濡れた右手にそっと触れる。
「辛い想い……いっぱいさせちゃったんだね……」
「……お前に比べれば……大したことないよ」
 カギは、奥歯を小さく噛み締める。
 ハコは、ぎゅっと唇を噛み締める。
「……私があそこに閉じ込められてるって……よく分かったね」
 ハコの質問にカギは、そっと左手を上げて彼女の薬指を指差す。
 そこに嵌められた大きなダイヤの指輪を。
 ハコは、指輪に目をやる。
「虫除けとお守り」
 カギは、小さく呟く。
組長オヤジ……ギンさんの伝手つてで作ってもらったんだ。その大きなダイヤの下に小型のGPSが仕込まれている」
 ハコは、目を見て大きくして指輪を見る。
「とんでもなく電気を消耗するから必要な時にしか使えなかったんだ」
 カギは、くしゃっと表情を歪める。
「もう二度と……お前を失いたくなかったから」
 ハコは、顔を上げる。
 大きな目が小さく震える。
 小波が二人の足を濡らしていく。
 波の音が啜り泣くように引いていく。
「……また……行っちまうのか?……」
 カギの言葉にハコは小さく頷く。
「もう……大分……意識が薄れそうになってる……」
 ハコは、髪を撫でるように頭に触れる。
「どうにか……ならないのか?」
 カギは、願うように言う。
 しかし、ハコは首を横に振る。
「覚えてたくないの」
 ハコの言葉にカギは、目を震わせる。
「汚い私のことを覚えていたくないの」
「汚くなんて……!」
 カギは、声を荒げそうになるのを堪える。
 ハコは、海を見る。
 遥かに先の水平線を見て目を細める。
「カギが来てくれた日……」
 ハコは、小さく絞り出すように言う。
「あいつらに蹂躙されて、いいように弄ばれて、身体どころか心まで縛られていた私は助けに来てくれたのがカギだって気づかなかった」
 散々、自分を苦しめてきた教祖を圧倒的な暴力で屈服させる男……。
 まるで地獄の蓋を開けてやってきたような凶暴な姿にハコはそれをカギと結びつけることができなかった。
 ああっ今度はこの人が私を弄ぶんだ。
 そう思い、彼に触れられた瞬間、泣き叫んだ。
「でも、カギだと気がついた瞬間、とても……とても嬉しかった」
 カギが……カギが来てくれた。
 カギが助けに来てくれた。
 そして……。
「同時に絶望した」
 危険を省みず、自分には想像も出来ないような修羅場を乗り越えて自分を助けにきてくれたカギ。
 それなのに私は……私は……。
「なんて汚いんだろう。なんで醜いんだろう。こんな……こんな……私を貴方に見られたくない……そう思ったの」
 ハコは、自分の身を千切るように抱きしめながら吐露する。
「嫌だ……嫌だ……こんな自分嫌だ……お願い神様……私を消して……それがダメなら私を綺麗にして……純粋で無垢で綺麗な子どもに戻して……そして……そして……」
 ハコは、涙に濡れた顔を上げる。
「カギとずっと一緒にいさせて」
 カギの鋭い目が大きく見開く。
 涙が行く筋も流れて砂浜に落ちる。
「カギ……」
 ハコの手が涙に濡れるカギの頬に触れる。
「もうすぐ……私は子どもに戻る。貴方をパパと呼んで全てを忘れてしまう……」
 ハコの手が優しくカギの頬を撫でる。
「そんな私をまた受け入れてくれる?」
 ハコは、願うように言う。
「愛してくれる?」
 涙に濡れた大人のハコの顔。
 その顔に子どものハコの顔が重なってカギには見えた。

 カギ……。

 パパ……。

 カギは、唇を噛み締め、グチャグチャになった感情を噛み締める。
 噛み締めて、飲み込んで、ゆっくりと吐き出す。
「当たり前だろう」
 カギは、小さく笑みを浮かべて言う。
 ハコを安心させるように。
 愛しむように。
「大人のハコも……子どものハコも……俺にとっちゃ大事なお前ハコだ」
 泣いちゃいけない。
 泣いちゃいけない。
 そう思ってるのに……。
「俺は……いつまでもお前を愛してるよ」
 涙に濡れた顔でカギは笑う。
 ハコは、涙に身体を震わせカギを抱きしめる。
「……待ってて」
 ハコは、カギの耳元で囁く。
「いつか……十年後なのか……二十年後なのか分からないけど……いつか自分を許すことが出来たら戻ってくる……カギのところに必ず帰ってくる……だから……だから……」
「ああっ……」
 カギは、優しくハコの髪を撫でる。
「待ってるからな……ハコ」
 カギは、優しく微笑む。
 ハコも嬉しそうに微笑む。
 二人の唇が重なる、
 小波さざなみがうたつよつに、祝福するように音を立てる。
 それは悠久のように長く、刹那のようにあまりに短い時間……。
 ハコの身体から力が抜ける。
 大きな目がゆっくりと閉じていく。
 カギは、唇を離す。
 涙に濡れた目でハコを見る。
 ハコの目がゆっくり開く。
 純粋て無垢な目がカギを見てパチクリと瞬きする。
「パパ?」
 ハコは、首を傾げる。
「涙してどうしたの?」
 ハコは、可愛らしく首を傾げる。
 そしてくるりっと周りを見渡す。
「海だ……」
 ハコは、首を傾げる。
 それだけでダリア婦人に捕まっていたことも、さっきまでのことも何も覚えていないことが分かる。
「なんでハコ海にいるの?イルカさんは?」
 ハコは、訳が分からず何度も首を左右に振る。
「ねえ、パパ。なんでハコここにいるの?カンナちゃんは?ゆかりママは……?」
 ハコの質問にカギは答えなかった。
 答えずに……ただハコを抱きしめた。
 深く……深く抱きしめ、大声で泣いた。
「ああああああっあああああっ」
 カギは、泣いた。
 全ての音を掻き消すよう大声で泣いた。
「ハコ……ハコ……ハコ……」
 大声で泣き続けるカギはハコはきょとんっとした顔をして……優しく頭を撫でる。
「ハコはここにいるよ……パパ」
 小波さざなみが二人の足を優しく撫で、全てを洗い流す。
 二人の足跡だけを避けるように残したまま。

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