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看取り人 エピソード5 失恋(3)

 翌日、登校すると真っ先にオミオツケが駆けつけてきた。
「あんた大丈夫?」
 その顔は、ひどく青ざめていて、和的で綺麗な冷めた目の下には大きな隈が出来ていた。
 昨晩は気づかなかったが、朝起きてスマホを見るとオミオツケからの着信が何十件と入っており彼女がどれだけ心配していたかを物語っていた。
「大丈夫だよ。オミオツケちゃん。ありがとう」
 先輩は、小さく笑みを浮かべて答える。
「でも……」
「本当に大丈夫だよ」
 それは強がりでなく本心だった。
 公園のベンチで白髪の男と話してから先輩の心は随分と軽くなっていた。
 痛みも悲しみもないと言えば嘘になるがそれでも立ち上がって、ご飯を食べて、学校に来るぐらいの気力はあった。
 クラスに入ってからもオミオツケはずっと先輩の近くに寄り添ってくれていた。きっと一人にしておけないと言う優しい彼女の気遣いなのだろうが先輩としては正直、いつも通りにして欲しかった。
 授業の内容は思いの外入ってきた。
 失恋なんてしたら普通は勉強なんて右から左なのだろうが、何故かいつも以上に頭の中に飛び込み、理解していった。
 失恋の傷を思い出したくないから勉強で埋め尽くそうとする脳の防衛本能でも働いているのだろうか?
 お昼休みになるとオミオツケが一緒に食べようっと声を掛けてきた。
 先輩は、いつも通り彼の待つプールの死角にお弁当とレジャーシートを持って出ようとしていたので断ろうとした。しかし、オミオツケの冷めた目での無言の訴えに唐突にああっ自分はフラれたんだった。今更行ってと意味ないし、彼にとっても迷惑なのだと思い、オミオツケの誘いを受けた。一緒にお弁当を食べてる時も彼のことが頭から離れることはなく、無意識に多く作った卵焼きを口に運びながら彼はプールの死角で一人でご飯を食べてるのだろうか?自分が来ないことに不思議がってはいないだろうかと思いを馳せた。
 放課後、先輩は急いで校舎を出た。
 オミオツケは、生徒会の活動があるため一緒に帰れないことをずっと謝っていたが、先輩は気にしないでとやんわりと言った。オミオツケの気持ちは嬉しいが、正直、帰りくらいは一人になりたかったし、彼に会う前に校舎を出たかった。
 しかし、校舎を出ても先輩は真っ直ぐ家に帰ろうとは思えなかった。いつもなら遅くまで働く叔母さんの為に夕飯を作って、洗濯物を取り込んでと家事をやっているがどうしてもそんな気が起きず、気がついたら昨日の公園に来ていた。
 なんでここに来たのか?自分でも分からないまま先輩は公園を歩き、昨日のベンチの辺りまで来て、足を止めた。
 白髪の男がベンチに座っていた。
 足を組んでベンチの背もたれに寄りかかり、朱色の万年筆を右手に、木板のバインダーを左手に持って真剣に視線を落とす姿は絵を落とし込む寡黙な芸術家か古い西洋の彫像のように見え、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。事実、公園で遊ぶ子供もカップル連れも、放し飼いにされた犬でさえ、何かに呪われているかのようにベンチには近づかなかった。
 先輩も白髪の男に目を奪われながらも声をかける勇気を持てず、指をモジモジさせながらじっと見ているだけだった。
 すると……。
 唐突に白髪の男が顔を上げる。
 そして佇んでいる先輩を見つけて……にっこりと微笑む。
「やあ」
 白髪の男は和やかな笑みを浮かべて万年筆を持った右手を上げる。
「昨晩ぶりだね」
「……こんにちは」
 先輩は、小さく頭を下げる。
 彼は、目を細めて先輩を見て、腰を浮かして座る位置をズラす。
「座るかい?」
 白髪の男は、小さな笑みを浮かべて言う。
 先輩は、躊躇いながらも男の隣に座ると彼は目を丸くする。
「自分から誘ってなんだけど、座るとは思わなかったよ」
 白髪の男は、唇を緩ませて笑う。
「もう会うことないって昨日言ったばかりなのに……また会えたね」
「昨日はありがとうございました」
 先輩は、綺麗に頭を下げる。
「次に会えたらお礼を言おうと思っていたので良かったです」
 そう言って小さく笑う。
 その笑みを見て白髪の男も小さく笑う。
「君は、心が綺麗だね」
 白髪の男の言葉に先輩の切長の目が大きく見開く。
「君は見ず知らずの僕に形でなはなく、しっかりと気持ちと感謝を込めて頭を下げている。こういうのは簡単なようで実は難しいんだ」
 白髪の男は柔らかく目を細める。
「特に日本人は礼節を重んじると言いながらも対面ばかりを気にする人種だからね。形は綺麗でも心からは中々出来ない。それが出来る君は心が綺麗な証拠さ」
「いえ……そんなこと……」
 先輩は、頬を赤く染め、両手を組んでモジモジさせる。
「きっとご両親が愛情込めてきちんと育てられたんだね。感謝しないと」
 両親……。
 その言葉に先輩の頬から赤みが消える。
 白髪の男もそれに気づいて細い眉を顰める。
「私……両親はいません」
 白髪の男の目が大きく見開く。
「父親は会ったことありません。顔も知らなければ生きてるのかも分かりません。母は……先日亡くなりました。私を嫌ったまま……何も言わずに」
 先輩は、制服の胸元に拳を当てる。
 母親のことを思い出しても以前のように恐怖を感じることはない。頭に浮かぶのは優しく語りかける笑顔の母親の姿。
 しかし、それでも全ての胸の詰まりが取れたわけではない。
 思い出せば悲しみが蘇る。痛みが胸を小さく刺す。
 先輩の頭にひんやりとしたほのかに温かい感触が乗る。
 白髪の男の手だ。
「すまない。辛いことを話させてしまった」
「いえ……そんなことは」
 先輩は、首を横に振る。
「両親はいませんが私には親代わりに育ててくれた叔母がいます。叔母は愛情いっぱいに私を育ててくれました」
 昨日、帰りが遅くなった先輩を心配し、顔を見た瞬間に抱きしめながら説教をしてきた叔母を思い出し、先輩は苦笑する。
「私の育ちが良く見えるとしたらそれは叔母のお陰です。叔母が褒められてるみたいで嬉しいです」
 先輩のまっすぐな言葉に白髪の男は目を大きく開き、そして笑う。
「君は本当に心が綺麗だ」
 白髪の男は、先輩の頭から手を退ける。
「君をフった男はきっと今頃後悔してるだろうね」
「……いえ……それはないと思います」
 先輩の言葉に白髪の男は怪訝な表情を浮かべる。
「彼は、私のことなんてなんとも思っていないはずですから……」
 彼は、万年筆を挟んだバインダーを横に置いて、先輩と向き合う。
「良かったら……話してくれないか?」
 彼は、優しい笑みを浮かべて言う。
「えっ?」
 先輩は、戸惑いの声を上げる。
「少しは力になれるかもしれないから……ね?」
 彼の顔はとても優しい。
 しかし、その目はとても真剣に先輩を見ている。
 先輩は、戸惑った。
 こんなこと……昨日会ったばかりの名前を知らない人に話すようなことではない。
 しかし、彼の目を見ていると……話すくらいはいいのかな?と何故か思ってしまった。
 正直、彼にとってはなんの価値もない話し、聞き捨てられて終わりだ。だったら自分も話して胸のつかえをとってしまいたい。
 そう思い、先輩は話した。
 彼との話しを。
 白髪の男は、先輩の話しを相槌を打つこともなく、優しい笑みと真剣な目で聞いた。
「ふーんっ看取り人ねえ」
 話しを聞き終えた男は感心するように声を出し、ベンチの背もたれに寄りかかる。
「人が死ぬ最後の数時間に立ち会い、話しをする。実に興味深いね」
「興味深い……ですか?」
「ああっ興味深いよ」
 先輩の問いに白髪の男は笑みを浮かべて頷く。
「いずれお世話になるかもしれないからね。聞けて良かったよ」
 男の言葉に先輩は少し違和感を感じて眉を顰める。
「それで……君はその看取り人が知らない女の子と一緒にデートしてるのを見た……と?」
「はいっ」
「それで自分がフラれた……と?」
「……はいっ」
 先輩は、弱々しく答える。
 白髪の男は、眉根を寄せ、やつれた頬を掻く。
「確認したのかい?」
「えっ?」
 先輩は、切長の右目を大きく見開く。
「彼に確認したのかい?その子は彼女なのか……と?」
「いえ……それは……」
 確かに確認してない。
 昨日はあまりのショックに動けなくなったのをオミオツケに引っ張り出され、今日は彼に会うのが怖くて逃げていた。
 でも……。
「とても……楽しそうでした」
「ん?」
「彼……とても楽しそうでした」
 あの女の子と一緒にいた看取り人の顔はいつもと変わらない表情の乏しく、一方的に引っ張られているように見えた。
 しかし、先輩には分かった。
 彼は、楽しんでいる。
 彼女と一緒にいるのを喜んでいる、と。
 だから、先輩はその場で動けなくなってしまったのだ。
「……そうか」
 白髪の男は、小さく呟き、先輩から視線を離す。
 先輩は、視線を膝下に落とし、小さく息を吐く。
 話せば少しはスッキリ出来るかな?と思ったのに結局何も変わらなかった。
 自分がフラれたんだ、と再認識して、胸がさらに痛くなっただけだ。
 こんなに……こんなに痛いならいっそ……。
「どうしたい?」
 白髪の男の声に先輩は、顔を上げる。
「フラれたと分かって君はどうしたい?」
「えっ?」
 まるで心を読まれたような白髪の男の言葉に先輩は動揺する。
「引きずって泣き続けるかい?もう二度と恋なんてしないと諦めるかい?それとも風邪みたいなもんと割り切って何事もなかったように忘れるかい?」
 泣き続ける?
 諦める?
 忘れる?
 自分にはそんなに選択肢があるのだと驚き、そんな選択肢しかないのかと絶望する。
 そんなの……そんなの……。
「いや……です」
 先輩は、絞り出すように言う。
「どうせ泣くなら……どうせ諦めるなら……いつか忘れられるなら……伝えたいです」
「誰に?」
「……彼に……」
 先輩は、涙に潤んだ切長の右目で白髪の男を見る。
「しっかりと伝えて……フラれて……納得して……前に進みたいです!」
 先輩は、自分でも驚くほど大きな声で白髪の男に言う。
 その目はとても力強く、そして美しかった。
 白髪の男は、じっと先輩を見て……嬉しそうに笑う。
「分かった」
 白髪の男は優しい口調で言う。
「それじゃあ、今から伝えにいくかい?君の気持ちを?」
 白髪の男の問いに先輩の顔が空気が抜けたように萎んでいく。
 あれだけ勢いよく伝えた癖にいざとなると途端に怯んでしまう。
 自分の気の弱さが情けない。
 白髪の男もそんな先輩の気持ちを察したのか?にこっと笑って隣に置いたバインダーを手に取る。
「手紙……書くかい?」
 バインダーに挟まれていたのは昨日も見た便箋と封筒だった。
「言葉で伝えるのが厳しいなら手紙で伝えてみたらどうかな?最近はチャットアプリなんかもあるけど、話しを聞く感じだとデジタルよりアナログの方が君の気持ちが伝わると思うけど……どうかな?」
 手紙……。
 そんなこと考えたこともなかった。
 でも、自分の気持ちが言葉に出来ないなら……手紙の方が伝わるかもしれない。
 人の気持ちを聞き、答え、導く彼には……。
「書きます」
 先輩は、小さく頷く。
「手紙……書きます」
 先輩の言葉に白髪の男は満足そうに唇を釣り上げる。
「それじゃあ一緒に書こうか」
 白髪の男の提案に先輩は切長の右目を丸くして驚く。
「実はね。僕もフラれたんだ」
 白髪の男は、便箋と封筒の挟まったバインダーを見ながら恥ずかしそうに言う。
「だから、手紙を書いてるんだけど、中々、筆が進まなくて……」
 確かに吹き出しの便箋には何も書かれていない。
「だから一緒に書かないかい?旅は道連れ世は情けってね。一緒に書けば筆も進むと思うんだけど……どうかな?」
 彼は、和やかな笑みを浮かべて言う。
 先輩は、突然の申し出に驚き、戸惑いながらもフラれたことを彼に告げた時と同様に彼の目と笑みを見ていると……。
「はいっ」
 先輩は、小さく頷く。
「よろしくお願いします」
 先輩の言葉に白髪の男は嬉しそうに頷く。
「それじゃあ早速、明日からやろうか」
 白髪の男は、バインダーはゆっくりとベンチから立ち上がる。
「時間は今日と同じ。雨が降ったり、風が強い日は中止ってことでいいかな?」
「はいっ」
「僕は、ここから少し離れたところにある施設でお世話になってるんだけど少し厳しいところでね。もし予定の時間に来なかったら僕はその日は来ないと思ってもらっていいからね」
「分かりました」
 施設とはなんだろう?と先輩は思ったが、さすがにそれはまだ触れてはいけないのかと思い、口には出さなかった。
「便箋と封筒はたくさんあるんだけどそれでいいかい?自分で用意する?」
「いえ、自分で用意します」
「そうだね。こんなおじさんが使ってるのは嫌だね」
「そんなことは……」
「それじゃあまた明日ね」
 そう言って昨日と同じように小さく手を振って去っていく。
 先輩も昨日と同じようにその背中を見送った。
 かくして先輩と白髪の男の少し変わった関係が生まれた。

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