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フェンシング部回想②

高校時代のフェンシング部の日々を振り返るおはなしの続き。
夏の県総体までは地味な基礎体力づくりと基本姿勢に明け暮れていた1年生も、この時期からようやく剣とプロテクター、マスクを携えて技術レッスンへと入ることになる。

マンツーマンレッスン

レッスンの指導方法は、上級生から下級生へのマンツーマン形式。
1年生は最初の技術レッスンに入る前に、特定の2年生とペアを組まされる。そしてその後1年間はペアを組んだ先輩から技を教えられて、主にその先輩と組んで練習をしていくのだ。
たまに他の上級生に教えてもらうこともあるが、基本的には固定。
この師弟関係は2年生が翌年3年になり、県総体で引退するまで続く。
そして2年生になると新たな1年生とペアを組み、教える立場になるのだ。

自分が後輩を受け持ってわかったけどこれかなり責任重大である。
後輩が強くなるかならないかは、自分の教え方しだい。
自分も技術を確実に身につけないと後輩にも教えられない。自分ができるだけではなく、それを相手に理解してもらえるように教えなければいけない。

1年生のうちは「この先輩についていって本当に大丈夫だろうか」と失礼なことを考えながらも信じてついていくしかなかった。
当然2年生になったらなったで、後輩の子に同じように思われている可能性があるのでデカいツラなどできようもない。拙い技術と足りない言葉のすべてを駆使して、何とか少しずつ技を教え込む。
他の同級生の弟子が自分の弟子、ときには自分より強くなったら、当然へこむ。
互いの成長を促す意味ではよかったかもしれないが、自分のようなビビりで不器用な人間には厳しい方法だったと、今でも思う。

練習場所

県立だったうちの高校、専用のフェンシング道場なぞあるわけもない。したがって練習場所は体育館をバレーボール部、バスケットボール部、卓球部とシェアしながら使うことになる。
ただ、フェンシング部は週の3日ほど、体育館の4分の1を占有することができたので、割と優遇されていた方かもしれない。(残りの日は体育館の中2階スペース)
当時は県の強豪の一角であり、人数も多かったこともあったからだろうが、マイナースポーツにとってははありがたい話である。

顧問が剣を握りやってくる

当時のウチの学校が一番変わっていたのは顧問の先生だろう。
ふつう部活の顧問といえば、先生たちの間で何となく割り振られるのが常。

一方、フェンシング部は顧問の先生がなんと3人。男子、女子でそれぞれ一人ずつ顧問がつき、指導も直接行う。つまり3人とも実際にフェンサー、(元)選手である。前述のとおり高校は県立で、当然教師は公務員で異動もある。もともとフェンシングが盛んな県で、各校で競技経験のある教員も少なくないのだが、さすがに同時に3人は珍しいのではないだろうか。
ちなみに残る一人の先生はめったに部活に顔を出さないためレアキャラ扱いされていた。

そんなわけで、準備運動とフットワークトレーニングを終え、休憩をはさんで技術レッスンを始めた頃、体育館の向こうから男子・女子それぞれの顧問の先生がのしのしとやってくる。
剣とマスクを小脇に抱え、グローブとプロテクターに身を包み、既に準備万端である。よほど職員会議がストレスだったに違いない。

先輩後輩でペアを組んで技術レッスンをしていた練習時間も後半に差し掛かると、ランダムに対戦するファイティング(試合形式の乱取り稽古)の時間が始まる。
それまでレッスンの様子を見ながら指導していた先生たちも、最後には生徒を相手にファイティングに加わる。仕事で溜まったストレスを発散するかのようにぐるぐると剣を振るい、挑んでくる生徒を蹴散らす様は実に楽しそうだ。
自分も毎回、今日こそ一泡吹かせてやろうとばかりに「お願いします!」と立ち向かっていったものの、結局小馬鹿にされるように軽くあしらわれた記憶しかない。
そして先生たちが思う存分暴れきり、すっかり日が暮れるころには一日の練習も終わりを迎える。

他の学校、他のフェンシング部の事情はわからないけれど、どこもこんな感じなのだろうか。それともウチの学校が特殊だったのだろうか?

ともあれこんな感じで、自分のフェンサー生活は高校時代の、およそ2年半に過ぎなかった。結局そこまで強くなることもなく、県大会でも3回戦まで行けば御の字。部内ヒエラルキーも低かったけどいじめもしごきも特になく、強くなくとも競技自体は楽しめた。それでよかったと思う。

部活動はもういらない。だけど……。

昨今、教育現場で先生の負担や待遇についてさままざなことが問題視されており、その一環で部活動の顧問をやらない、やらせない動きも出てきている。まあ、そうするのが当然だし、やりたくもない素人に無理やり顧問をやらせたところで、そもそも何ができるよ、って話。

その点では我々は恵まれていた。先生自身が競技を熟知しているし、指導の仕方もわかっている。練習中に剣が折れても滞りなく練習を続けられたのも、先生方が剣(ブレード)のスペアを大量に仕入れてくれていたおかげ(ただしその都度3000円を先生に払う)。
まだインターネットもなかったあの時代に、そう多くない部費と、足りない分はおそらく自腹で(3人で折半しただろうけど)海外から何十本も購入するのは大変だったはず。

いまや多くの弊害が出てきている中学、高校、大学での部活、特に運動部。
変な精神主義・根性論や閉鎖的な社会、上下関係の絶対性などを植え付けて、教育の名のもとに子どもを洗脳するくらいなら、いっそ廃止したほうがいいと思っている。

だけど、我々が安心して部活動を続けてこれたのは間違いなく顧問の先生方がいたおかげだし、責任もって世話をする大人がいなければ活動が成り立たなかったのも確かなのだ。

スポーツを自由に、純粋に楽しみたいと願う子どもたちには、どんな地域でも、どんなスポーツでも、どんな家庭の経済状況でも、かつて自分がしてもらったような環境や指導体制をできる限り用意してあげられるような、そんな場所が必要だとも思っている。
遍くすべての地域社会で、それが可能になる日は来るのだろうか。


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