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Red Flood イデオロギーリスト/前衛社会主義編

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レーニン主義 (Leninism)

共産主義のレーニン主義流派は、ハンガリー革命によって世界に紹介され、国際社会主義運動の左翼として確固たる地位を築いている。このイデオロギーは、RSDRP (ロシヤ社会民主労働党) の元指導者である同名の人物によって最初に提唱され、マルクス主義の厳格で教義的な解釈を支持し、他を妥協した修正主義と非難する原理主義的判断を行う。その核心的原則とは、即ちブルジョワ勢力との最終決戦におけるプロレタリア軍の最前衛を形成することを運命づけられた、訓練された職業革命家の集団によって革命が齎されるという前衛主義の原則である。

レーニン主義を真に理解するためには、その歴史を理解する必要がある。レーニンは彼の祖国において預言者となることはなかった。アレクサーンドル・ボグダーノフとフペリョート派に出し抜かれた彼は、RSDRPを独裁的に支配しようとしたと非難され、そして強制的にその仲間から追放された。しかし西側おいて、彼の思想は大戦によって耕された肥沃な大地を見つけた。常に社会主義者の最も急進的な人々が集まる場所であったドイツやハンガリーにおいて、その燃え上がる雄弁家は支持者を増やし、そしてユーラシア革命での活躍が認められたことで新生ドイツ政府の外務大臣に任命された。他の国際社会主義者だけでなく、ドイツの与党そのものをも批判し続けたことで、世界的にその信奉者――SPD (ドイツ社会民主党) が共産主義の目標から遠ざかっていると見做した革命の使徒たち――を集めた。1920年代末の内閣の最終的な崩壊によって、レーニン主義は理論の集積とそれに従う群れを持つようになった。

こうして世界中の社会民主主義政党に楔を打ち込んだレーニン主義は、それ自体の国際的前衛となっている――そして右派の人々を反逆者として、左派の人々を幼児としてそれぞれ酷評している。厳格な唯物論的エートスを、鉄の団結を成した党、国家管理経済、民族自決政策に結びつることでマルクス主義の科学に忠実な教義を作り上げ、共産主義の目標が小ブルジョワの裏切り者によって汚されることを決して許さない。1920年代の世界革命が明らかに停滞する中で、多くの幻滅した労働者はやがてこの呼び掛けを聞き、自分たちの手で歴史を切り開くことを決意するのかもしれない。

国民前衛主義 (National Vanguardism)

共産主義はその最初の表明(即ち『共産党宣言』)から、労働者は祖国を持たないと考えた。マルクスとエンゲルスは18世紀と19世紀の革命家が封建制度を破壊した事を高く評価したが、ブルジョワが作り出したネイションは国際労働者階級の協力にとっての障害であるともした。この理念は左翼政治の広い範囲に影響を与えたが、全ての信奉者が国民主義を完全に放棄した訳ではない。ヴラヂーミル・レーニンのように、共産主義は小さなネイションの解放者である必要があると主張する者もいた。また、より強力な帝国と比較して自国民が生得的にプロレタリアであると考える者もいた。

大戦の勃発はヨーロッパの労働者階級の連帯における究極の試練の到来を示したが、殆どの面でそれは失敗した。1918年の革命は革命的社会民主主義者だけが主導した訳ではない――ドイツでは、カイザーに対して、正統派社会民主主義の路線には沿わない形の多様な反対の声が高まり、中には戦時中の国民共同体の感覚が国際兄弟愛的の疑似約束に取って代わったのだと考える者さえいた。戦争の余波の中で――1922年のイタリアで起きたプロレタリア=国民主義者蜂起が失敗したことを考えると――国民主義運動は周縁的で分裂した傾向で残存したものの、社会主義国家内の国民主義運動にはその理論を洗練し、そして新しい範囲内で煽動する為の時間があった。

国民前衛主義の特異な教義を厳守していると主張している政党は存在しないが、かつて加速主義がそうであったように、観察者によって名前が付けられるのに十分なほど顕著となっている。ドイツ革命から数十年、スパルタクス主義のモデルが国際資本主義の腐敗を打破するものであるかどうかは、依然として不確かである。反革命的な体制が力を付ける中、この共産主義の新しくかつ積極的な型は、もし革命を生き延びさせるならば、労働者を導く戦闘的な前衛党から労働者を一体にする国民的理想に至るまで、プロレタリアートを結集する為に可能な限り汎ゆる手段を使わなければならないと宣言している。これは社会主義を活性化させる力だと示すことができるだろうか? それとも、その魂の墓穴を掘ることになるのだろうか?

社会共和主義 (Social Republicanism)

共和国という言葉は、公共なるものを意味するラテン語の句、レース・プーブリカ (Rēs Pūblica) に由来している。しかし、多くのいわゆる「共和主義者」にとって、彼らの建設する国家は真に人民のものではない、単にライセンスの為のライセンスに過ぎないのだ。ほったらかしにされる自由。なんという茶番だ! 隣人が、都市が、ネイションが、そして世界が奴隷にされている時、どうして市民が自由でいられようか? これが「市民共和国」の没落であり、その実態は、資本と偽りの自由による策略にほかならない。

社会共和主義は、市民共和国という概念への不満と、それが社会主義全体に残したコスモポリタンな汚点から生まれた。この用語は1848年の革命的左派、即ちヨーロッパを跨いだ革命において、自由主義的派閥に反抗した勇敢なコミュナルや愛国者たちに起源を見出すことができる。しばしば悪評を買うこの英雄たちは、往時の国家に対し勇敢に立ち向かい、ネイションが人民を支配するのではなく、真にネイションの人民によって構成され統治される共和国を設立しようとした人々である。

普遍主義的原則の単純な適用に反対する社会共和主義は、時の織物の中にある正義の糸を辿り、国民体の内の自由なる伝統に目を向ける必要性を強調する。社会共和国とは国家ではなく、プラトンのポリスでもなく、国民全体が自分たちの支配者として組織されたものである。特定の歴史やネイションと結びついている為、その姿は国の数だけあるが、民主主義への貢献、国民的ロマン主義への重点、人民の人民による人民の為の前衛が共和国を導くことなど、共通の原理を持っている。しかしいずれの場合でも、時代を越えた解放と反支配の物語を紡ぎ、その中では生者が死者以上の栄誉を受けることはなく、祖先の炎が前進され、背後には過去の灰を残しゆく。

軍政社会主義 (Stratocratic Socialism)

社会主義革命と国家の軍隊とは伝統的に敵同士である――パリ・コミューンの粛清やロシヤ内戦での左派の敗北、植民地守備隊に制圧された無数の社会主義者と連携した叛乱は、彼らに傷跡を残した。しかしながら、特定の状況下において、社会主義者を公言する者自身が軍隊と国家の役割を担うことが見られ、それは大抵文民政府の権威の崩壊に起因する。政治的権力が軍隊に移譲されたのであれ、或いは軍閥が社会主義共和国の統治を志したのであれ、そうして現れた体制は軍政社会主義と見做される。

ある程度、大戦によってこの政治的協定への理論的口実が提供された。「総力戦」の観念は社会の完全な軍事化に努めたプロイセン参謀たちによって探究され称賛されていたにも拘わらず、類似した見解が1910年代後半の諸内戦の中で、ロシヤにおける社会主義者将校によるものを含めて、議論されていた。他方、メキシコ革命などでは、戦場で奮戦する一方で、自身の支配地域にて土地と社会の改革を実施する将軍もいた。義賊と軍事委員会 (Military Junta) の間のどこかで、赤軍司令官は公然と特定の地域における最高権威となり、それに従い統治する。

この社会主義の特殊な形態の下では、前衛党は軍隊に従属するか、若しくは軍隊それ自体が前衛党と同様の目的を果たすかのいずれかである。時に、軍事力増強と戦争が国家の焦点と資源に過大な規模で優先される。また時に、軍隊は社会主義政策を通じて国家設計を急速に実現する為の地均しの手段として、強引かもしれないが、効用である。従来型の軍事独裁制に由来すると伝統的にされてきた利点の多くは此処にも適応できるが、赤軍、人民民兵、或いは他の国家統治組織は、自身を手段ではなくを目的としてしまう恐れがある――それは言うなれば、特権的な将校の集団内により統治される、赤いプロイセンだ。しかし彼らは、革命が生き残る為の戦争へと向かわねばならない時、その任により適した者は他にはいないのだと――それなりの正当性を以て――反論するであろう。

国家社会主義(State Socialism)

革命が勝利したとて、闘争とは単純に終わるものではない。国家社会主義を実践していると認められる体制にとって、この重要な時期に党の統制を緩めることは、全てを危険――経済的立ち遅れ、ブルジョワ的逸脱、或いはもっと悪いもの――に曝すことになると、彼らは知っている。行政国家は年々洗練されてきているが、それを放棄する前に良い方向に利用することはできないのだろうか?

ある意味で、そしてマルクスとエンゲルスはプロレタリアートから切り離された存在として彼を非難するだろうが、こうした国家主義的な社会主義の形態はルイ・オーギュスト・ブランキの理論に類似するところがある。彼の変革のモデルは、革命的組織の権力掌握と、その後に社会主義の条件を構築する為の過渡的な独裁体制を形成を伴うとした。「ブランキ主義」は彼の生涯で蔑称となったが、この概念にはある種の実用主義があった。それ故に――革命を牽引した武闘派集団の反映であれ、支配地域に大衆的な社会主義政党が欠けている為であれ――中央集権的で権威的な国家を中心に展開する社会主義的統治形態が存在しており、それは官僚主義的能力を駆使して共産主義への道筋を構築する。

国家社会主義は、レーニン主義やフペリョート主義のような認知された世界的な傾向との直接的な繋がりはなく、前衛主義的な信念を持つ社会主義政府の包括的な用語として存在する。政府を統御する前衛党が存在し、政府は共産主義の究極の目的に向かって経済を統制する。新たなヒエラルキーを定着させるものだという批判がされることも度々あるものの、実際に物質的な改善や近代化を成す国家官僚の能力が正当性のある大衆的魅力を齎す。要するに、国家社会主義的モデルは革命を治療のように扱い、そして汎ゆる治療はたとえ患者が反対してもを実施しなければならないと考えている。プロレタリアートが泥の中から甦り、前途ある仕事の為に教育され、生産手段の駆動部が夜闇の内に煌めいた後、人民は前途ある道を自ら歩むことができるのだ。


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