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Red Flood イデオロギーリスト/進歩主義編
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進歩民主主義 (Progressive Democracy)
世紀の変わり目に産業機械が発展し、それを取り巻く生活が形を変えていくに連れて、社会改革者たちが数十年間指摘してきた問題は、大半の一般民衆にとっても無視できるものではなくなった。不衛生な生活環境と病気の蔓延、労働者の酷使とそれが引き起こす暴動、これら全てが行動を要求した、それは血塗れの革命で社会全体を転覆することに抵抗を感じる人々にさえ。政府の管理能力が向上すると共に、そして統計的測定や科学的研究の新たな手法が編み出されると共に、以下の様な疑問が生じた。これらを民衆の状況を改善するために使えないだろうか? その結果として発生した傾向は進歩民主主義と名付けれらた。
このイデオロギーが単に「進歩主義」と認識された場合でも、人間と社会とをより良くするという大義の中に根本的な信念が表されていることは同じである。啓蒙思想における経験論により病気の原因を発見されるに連れ、またその議論よって教育の価値や不可侵の権利を支持される様になるに連れ、野蛮に対抗する、目指すべき普遍的理念が存在することは広く認識された。この理念へ向かって進む障害は、貧困、貧弱な公衆衛生、非識字といった諸問題に特定された ―― そして、それらに対する意識が高まるに連れ、改革を志す者たちが大衆政治の世界にその原因を持ち込んでいった。
進歩民主主義はそれ故、進歩の価値を支持し、それを追求するために民主国家的な手段を採る傾向がある。勿論進歩それ自体は、自由主義や保守主義がそうであった様に、その定義について議論され、そして歴史上その時々の問題に対応するために時代を経て進化してきた。公衆衛生の価値は、一方では都市衛生への病原菌説の適用を齎したが、他方では優生学計画への遺伝率の適用も齎した。教育の価値と世俗主義は公立学校と植民地の文明化の使命とを共に正当化した。しかし何よりこれは、政治的現象として、大きな社会的苦難に直面した時、国家は国民的努力を通じてこれらを改善することが可能であり、またそうすべきだと考えているのだ。
進歩協同主義 (Progressive Corporatism)
1789年フランス革命によって解き放たれた稲妻は、もはや覆水盆に返らずであること証明した。革命とは世界中で直線的且つ普遍的なプロセスであるとはとても言い難く、覆そうという試みも多くあったが、玉座や祭壇は時代を経る毎に世俗における権威を喪失していった。生まれたばかりの自由主義の情勢に対する明らかな批評は伝統主義者たちから齎されたが、彼らだけではなかった。19世紀半ばには、新しい別の批評者が現れた、それが進歩協同主義だ。
人類の協同組織化という観念は古代からあるものだ。プラトンやアリストテレスでさえ、人々が社会の役割に従って組織体へと分類されるモデルを思い描けていたのである。各自の職業毎に組織化されていた封建時代のヨーロッパの大ギルドは、この実践における一つの例だ ―― しかし、それらは伝統主義者の理想だけに留まりはしないだろう。産業化と階級間緊張が激化するに連れて、そして家族やギルドの様な伝統的な社会関係が崩壊が疎外感を齎すに連れて、社会主義者や哲学者たちは人々の間の連帯を再構築するための新しい組織を提唱し始めていった。
このサン=シモンやデュルケムの世界に、カトリック社会教説が入り込んだ。教皇レオ13世は協同主義の研究を任じ、そして1891年に回勅『レールム・ノヴァールム』 (新しき事がらについて) を発表し、その内容は正義と尊厳を基盤とした経済の必要性を強調し、祝福を労働組合に与え、資本と労働の間の協調をを親身に呼びかけた。聖ペトロの玉座の継承者の全員が同様の考えではなかったものの、資本主義と社会主義の間の道のための ―― 啓蒙思想そのものを否定することのない ―― バチカンの研究は、多くの人々を奮起させたのである。
宗教的分配主義に根ざすものであれ、ギルド社会主義に根ざすものであれ、進歩協同主義は依然として、自由主義におけるアノミーや戦闘的近代政治における非人間化、そして反動主義の隔世遺伝の間で舵取りしている。集団的組織と階級全体に権利を付与している国家は、より幅広い社会の改善と調和のための協調を促す。紛争に引き裂かれた世界の中にも、依然として互いに愛し合うための時間が存在することを強調しているのだ。
自由社会主義 (Liberal Socialism)
1789年の後継者たちと1918の後継者たちとの間、自由個人主義的伝統の子孫たちと集産社会主義者たちとの間、そこには深い隔たりが生じている。しかし、ドイツ社会民主党 (SPD) はそれが不可能となるまで、議会制度の中で活動していた。エドゥアルト・ベルンシュタイン、SPD右派の頭目であった彼でさえ、社会主義を自由主義の組織化された形態の一つであると定義したのだ。両派の野望を一致させる使命は、自由社会主義の理論家たちに掛かっているのかもしれない。
この傾向の基盤は一般的にイギリス人の改良主義者たちから始められたとされるが、完全にそうとは言い切れない。ジョン・ステュアート・ミル、表向きは19世紀にイギリス自由主義の導燈であるとされる彼は、社会組織の原則として民主主義の理想を記したが、これを実現するための手段として経済的再分配と労働者所有の協同組合とが必要であるとも考えた。時代を下れば、フェビアン協会が道徳的経済について、これは搾取的なランティエ階級 [不労所得で生活する人々] を切り捨てて社会正義に貢献するものだとして説く様になった。プルードンの称揚した労働者自主管理やゾンバルトが記した混合経済もまた、ヨーロッパ大陸にその種を蒔いた。ドイツ及びハンガリーの革命に参加した者たちの内、自由主義者の場合、自らを革命後の新しい現実に適合させていくに連れて、また一部の社会主義者の場合、革命の成果を保護するための動員と国家テロルの下で苦慮するに連れて、内在する政治的懸念はこのイデオロギーの更なる拡大を生じさせた。
こうして現実に自由社会主義国家が実現されたのである。これは実践において、分権的秩序、平等主義と主意主義の原則、及び官民混合経済を求める。革命的な中産階級の忠義を守るためであれ、或いはブルジョワジーに尽く挫折させられてきた自由への野望を成し遂げるためであれ、政治的二極化に拘わらず、世界の一部における反体制的時流としてこうして残り続けてきたのだ。社会主義よ、正義と自由の名の下にあれ!
左翼大衆主義 (Left Wing Populism)
選挙遊説を行う者の多くは、あなたにこう言うだろう「民衆のために」と。時には、マイクの前に立っていない時にも、これが本心たることもある。しかし多くの改革者の夢は「普通の政治」によって打ち砕かれてきており、それは妥協と腐敗が必然的にその手を汚させ、且つ野心を飲み込ませるからだ。庶民の不満が高まり、制度がそれ自身の維持にしか興味が無いために彼らの声に応えられないことが証明される時、誰かが、そして庶民の運動が、民意を反映するために政治的土俵へ足を踏み入れるだろう。彼らの綱領やレトリックが社会主義または進歩主義との類似点を持つ場合、これは左翼大衆主義の一形態として分類されるだろう。
大衆主義というラベルは極めて曖昧だが、この文脈においては、幾つか共通の特徴がある。その大衆主義運動は従来の政党の外側で生まれ、抗議活動などの公的なキャンペーンとして出発した後に、独自の政党を形成したり、既存の政党の内部派閥となったりする。彼らが左翼として説明される場合、その理由は、経済的再配分を課題としたり、平等主義的な社会改革を主張したりすることである傾向がある。しばしばカリスマ的指導者か特定の不満を背景に始まり、通常は社会主義に分類される様なものよりも、教条的でなく、習合的でさえある、政治的綱領を策定する傾向がある。
左翼大衆主義運動は、定着した政治的利害に反抗し険しい道を進むにも拘わらず、固有の長所を数多く持っている。精力的且つ正真正銘の指導者は既成の候補者たちよりも広く支持者を集めることが可能であり、政党間の垣根を越えて、そして政治的に無関心な人々にも訴えかけられる能力を持つ。更に、良心の呵責に因われない、或いは現状維持への意欲を持たないこの人物は、その政治的障害に対して思うがままに力を発揮することができる。大衆主義運動の矛盾が自らを破滅させてしまうのか否か、またこの運動が自らの批判する支配体制に内に取り込まれてしまうのか否か、そして民主主義が自らを復活させる能力を未だ持っていることを証明できるのか否か、これらは決して予測できず、不明瞭なままなのである。
社会的ナショナリズム (Social Nationalism)
暗記型のマルクス主義のアプローチではネイションを、その国境を越えた労働者の連帯に反対するブルジョワの創造物として見做している。また、ナショナリズムを利用することの内在的危険を理解する者もいる。これは即ち、国内外両方の敵への攻撃を活気づけるために旗を振るう様な場合があるということだ。しかし、こうした警告にも拘わらず、左翼政治、議会制民主主義、ナショナリズムが連携作用する場所、つまり進歩主義とナショナリズムとが政治運動の中で意図的に結合された場所が存在する。特に大戦以後の各地で国家独立が果たされていくに連れ、この傾向は社会的ナショナリズムとして定式化されていった。
ネイションの理想が嘗て伝統や反動と真っ向から対立したことは忘れられるものではなかろう。共和派ナショナリズムはヨーロッパの多くの地域で封建制の残滓を、聖職者の特権的地位から祖国を分つ貴族の荘園の領地に至るまで打ち砕いた。さらに、1789年と1848年の革命は自由主義的な性格だと考えられているものの、平等主義者の陰謀から共産主義の創始者たちまで、多くの参加者が政治的左翼の出身であると認識されている。独立闘争や、未だ根強い封建的権力制度、或いは他のナショナリティによる支配の時代の余波により、大衆の政治的動員を実行するには困難な諸国において、国民同一性は依然として国を跨いだ集団性を構築するための強力な手段である。我々はイタリア統一に関する次の言葉を忘れてはならない。「我々はイタリアを成した、今我々はイタリア人を成さねばならない」
社会的ナショナリズムはその定義によれば進歩的イデオロギーとされ、民衆の物質的状態と社会的地位の向上を必然的に伴う。それは全国民に国民同一性を教え込むことに夢中な同輩たちとは異なるのだ。それを生み出す条件 ―― 新たに勝ち取られた独立、或いは封建的な立ち遅れ ―― は確立された世界的大国の辺縁、特に帝国主義的所有物の中で、成長に導かれる傾向がある。世界的な勢力均衡が移りゆき、そして政治意識が世界の周縁で育ちゆく中で、嘗てのフリュギア帽が再び人々に被られるのかもしれない。
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